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INFPエニアグラムタイプ4から見る「天才」とは何か

天才とは

一般的に、天才とは生まれながらにして秀でた能力を持つ者として扱われています。
正確にどこからどこまでが天才なのか、天才の具体的な指標とは何かということはイマイチはっきりしません。
また、日本の文化圏で「天才」というと、全知全能に近いような全ての能力において秀でた完璧超人のような人というイメージがあります。
(主にマンガ、アニメ、ゲームなどの影響かもしれません。例えばデスノートのL(エル)や、ちよちゃん(あずまんが大王)などでしょうか?といってもこれだ!というキャラがあまりいなかった)

INFP型やエニアグラムタイプ4は天才肌?

これは色々と誤解を招く見出しですが、実際に性格タイプの説明においてそう書かれていることが多いです。
ただ、私はここに違和感があり、今回の記事を書くことにしました。

INFP型やエニアグラムタイプ4というのは共に内向型で、一人の時間が好きであり、感受性豊かという性格です。
この性格タイプが生きているとどう扱われるかというと、一言で表すと「変人」「変わり者」となります。
ただし、INFPやタイプ4の中にも様々なので、そう見なされない同タイプの人も数多くいるでしょう。(分類は同じでも細かくはかなり違うのです)
ちなみに私もINFPタイプ4ですが、例に漏れず「変わり者」として認識されていると自覚しています。
また、もう少し柔らかい表現になると「天然」とか「不思議な人」と言われることがあります。

さて、この性格タイプ、そうやって幼少~社会人まで生きていくと大抵似た経験をするようです。
・「変わり者」としていじられる(悪質になると「いじめ」に発展)
・「天然キャラ」として愛される(女性に多いような気がする)
・あまり周囲と溶け込めず、いつの間にか孤立している
・周囲と感じ方が根本的に違うと認識するも、表に出さずに過ごす

まだ色々とありますが、それは別の機会にするとして・・・
とにかく、一般的な社会の表舞台には立つことの少ない性格タイプということです。(つまりマイノリティ)

ここで「天才」について話を戻します。
私は、INFP、エニアタイプ4、「天才」の特徴など診断があったりしますが、そういった条件にほとんど当てはまっています。
だからといって自分が天才なのか?というと、そうではありません。
学校教育的な組織や体系的な勉強が好きではないですし、数字にも弱い。
(よく天才は数字を扱いますが私は全くの無縁で暗算など特に苦手)
一般社会の尺度で言えば、組織としては使い辛いタイプでしょう。

ただ、間違いなく秀でている(というより突出している)要素はあります。
それは、「想像力」。
(これについては、個性の差はあれど、あくまで社会全体から見てある程度特徴と言えるレベルには突出している)
説明が難しいですが、この想像力というのは、アーティスティックという意味ではなく、脳内にイメージできる能力という意味です。

ここで思います。
「天才」とはある種の分野が突出した対象に対し、あくまで便宜的に使われる言葉なのではないかと。
つまり、「天才」というのは実は無数に存在していて、その中の一部が表に出て名を残している。
普段生活していても「天才」はそこら中にいて、名前が出ずに埋もれていく人もいれば、特に野心なく幸福な人生を終える人もいる、社会に適合できず苦しみ命を落とす人もいる、それらの名も知らぬ「天才」たちが、世の中に無数に存在しているのではないかなと。

天才という言葉に惑わされてはならない

天才という言葉には魔力があるように思えます。
確かに、特に突出した才能のようなものがあれば、優越感や特別感に浸れるかもしれません。
しかし、このタイプの人間ならご存じの通り、ある種の才能が秀でている代わりに、ある分野は苦手で仕方がないというのがあるはずです。
そう、我々内向型タイプから見ると、「外向的能力」です。
つまり、「天才」とは他者より秀でているわけではなく、ある種の才能に特化したタイプのことを指すと言えるのではないでしょうか。

仮に私が天才ならば、世の中には無数に天才がいることになります。
それくらい、特別なわけではないということを認識した方が良いかもしれません。
特別だとすれば、それは「個性」のことでしょう。
「自分自身の価値観、世界観」というのは、間違いなく自分だけのものであり、強固なものです。それは唯一無二の特別なものと言えます。

中には天才の中の天才のような、アインシュタインクラスの人がいるかもしれませんが、その人にもそれなりの苦悩があるはずです。

天才という言葉の裏側に

上記のような考え方は私見ではありますが、あながち全くの的外れとは思っていません。
重要なのは、マイノリティで何らかの特徴のある者に対して、そのもう一方の側面や本質的な中身を同時に観ようとしなければ、本来の姿が隠されてしまうのではないかということです。
光と闇の部分が混在していると言った方が判り易いかもしれません。
表立って能力を発揮できた天才が慕われる背後で、似た才覚であったにも関わらず迫害を受けて沈んでいく天才も多いのではないかと感じられます。
(ここで言う天才というのは、ある種の能力や才能が尖っている者という意味。天才が特別ではなく単なる特徴の一つという捉え方)

つまり、「天才」というポジティブな認識の中には、同時にマイノリティに対する迫害や差別といったネガティブな意識も内包しているということです。

それらの人々が本来の能力を伸び伸びと発揮できる環境があったとしたら、もしかしたら社会を変えるような変革が生まれていたかもしれない、その可能性を摘みたくはないなと思います。

映画や創作に学ぶことは多い

未来の社会システムについて、正直言って現在を見ているとあまり希望が持てないでいます。
ただ、いずれ確実に科学や医療レベルが上がると共に、人間の価値基準や遺伝子レベルでの変貌が訪れるような気がしてもいます。
(AIによるシンギュラリティ(技術的特異点)が近いうちに起こるとも言われていますが)

よくある近未来ものやディストピアもので、社会システムの閉塞感が描写されているものがあります。
ああいった創作にもヒントが隠されていることを知っておく必要があるのではと思っています。
ある意味近い将来に対する警鐘とも言えるこれら創作作品について、単なるエンターテイメントとして消費するのではなく、本質を真摯に受け入れる体勢が欲しいところです。
もしINFPやエニアグラムタイプ4、それ以外の内向タイプができることがあるとしたら、既に身についている「創作から本質を見出せる豊かな感受性」を使っていくことではないでしょうか。

自然界にバランスというものが組み込まれていて、この一部マイノリティであるタイプが存在する理由があるとしたら、大多数の向かっていく方向性に対して軌道修正するための微妙な舵取り、またはストッパーの役目も持っているのでは、と考えることもできるのでは。

今の自分には、現状このNOTEを使って自分の思うことを書き連ねるくらいしか思いついていません。(影響力もなく行動力も乏しい自分には今はこれくらいしかない)
個々に存在する所謂「天才」というニュアンスの人々が、個から少しずつ似たベクトルに向かって意思疎通できたら何かが変わるかもという期待が朧気ながらしています。

以上、あまりにも突拍子もない内容だったかもしれませんが、これも一つのINFPエニア4のぐるぐる回るイメージの形として、投稿して残しておきます。

最後に、私が感銘を受けた「天才」と呼ばれるアインシュタインの言葉を載せておきます。

想像力は、知識より大切だ。知識には限界があるが、想像力は、世界を包み込む

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