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ちゃんごーグミカンパニーちゃんは他人に期待することをやめない

自分が以外の他人、例えば職場の人間や友人などの周りの人間が、例えば下記のような
「どうしてこういう行動をとるんだろう」
「どうしてあと少し気を利かせてやってくれないんだろう」
こういうことを思うことはないだろうか。

僕はある。めちゃくちゃある。
逆に、他人対して何とも思わない人もいるだろう。

「他人に期待するだけ無駄。」

こんなセリフを僕は飲み会で聞いたことを覚えている。
それは僕の友人が仕事をする上で
「どうしてこうしてくれないんだろう」
という思いに対して、別の友人がいった言葉だった。


僕は
「他人に期待しない」
という言葉がなぜか嫌いだ。

「他人に期待しない人が、人に期待されるわけがない。ましてや信頼されるわけがない。」
「他人に期待しない人々が作り出すことができる未来はない。」
と思うのだ。

自称「他人に期待しない人」
は本当に他人に期待しないのだろうか。
きっと期待していたけど、その思いが過去に裏切られたりしてそう思うようになってしまったのではないだろうか。
そうしているうちに、他人を信じている自分が傷つくのが嫌になって、人に期待しないようになってしまった。または、人に期待しないと言い聞かせるようになってしまったのではないかと思う。
憶測にすぎないけど…。

そもそも「他人に期待しない」ってすごい寂しいと思う。
他人に期待しないことで、価値のある世の中にしていくことができるのかって思う。
他人に期待しないで作れるものはあるのかなって思う。
他人に期待しないことで生まれるものは何だろうか。


なんなら僕は他人に期待されたい。
過度に期待し過ぎないでは欲しいけど(笑)
でも、他人に期待しない人が他人に期待されるわけがない。
人に愛されたいって本当は思っているのに、自分が人を愛さないんだったら、他人に愛されるわけがない。
どうしてもそう思ってしまう。

しかし、他人に期待されたいがために、期待しているわけではない。
僕は多分、人間に興味があるからこそ人に期待してしまう。
「どうしてそういう風に思うんだろう」
「どうしてそういう行動をとるんだろう」
ある意味そういった人への興味が、期待にもつながっている。

だから、世間の人々が
「どうして他人に興味がないんだろう」
「どうして赤の他人の選択にケチをつけるんだろう」
「どうしてこんな話題が好きなんだろう」
例を挙げるとキリがないけど、他人の行動・思考などに至る理由、意思決定のプロセスなどに興味がある。

他人のことを知ったからといって何があるわけでもないが、
世間の人々が自分にはわからない行動をとることに対して、理解を得る手がかりになるかもしれない。
理解することで自分にも生かせることがあるかもしれないし、そこから得られた自分の行動によって、他人を変えることができるかもしれない。

だから僕は他人に対する興味をやめないし、他人に期待したい。
「他人に期待していないし」
って言って斜に構えることで、自分を守って、得るものを少なくしたくない。
他人に期待することで自分が傷つくことがあっても、他人に期待したい。
それが生き方として苦しい生き方だとわかっていても、期待していきたい。
他人に期待することで、作られる未来が見たい。


だから、
「ちゃんごーグミカンパニーちゃんは他人に期待することを止めない。」

クソどうでも良い事を書き連ねて、ロックンロールでギリギリ生きてます。