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『異端の鳥』(2019年)/映画

 あれは忘れもしない2012年の秋。私はTwitterばかり見ていた。昨年の震災を機に色々と思うことがあり、原発のことや放射性物質のことなどを呟く人々を、多少の共感と多少の反感を持って眺めていたのだ。
 その頃だった。どんな人がどんな理由で発言したものかなど全く覚えていないが、とあるツイートに共感しまくった。私はその時「いいね」(あの頃はまだ「ふぁぼ」だったか?)を押せるものなら何百回も押したかった。

 さて、名も知らぬ誰かは言った。

「明るい未来ってなに?  明るくない未来だってあるはず。」

(あ、細かい言い回しは絶対に違うのであしからず。)

 ともかくも、震災の翌年という不安定な気運や、親と同居しながらも20代半ばでフリーター生活をし、これと言った目標もなく生きている私自身のよるべなさなどが重なり、この文言は当時の私にビシバシ響いた。
 明るい未来があれば、明るくない未来だって当然あるはずだ。なんというか、それは悲観ではなく物事の道理として。
 未来は明るくなくてはいけない、と無意識に追い込まれがちだった私は、それで少しだけ気が晴れた。

 それから月日は流れて数年後。私は子供を産んだ。そこで再び「明るい未来」にブチ当る。私のことではなく、子供の方のそれだ。確かに子供が育つ未来は明るくあってほしい。しかしこの世で生きる限り、人間同士の争いや諍いを避けて生きていくことはできない。
 実は、私は少しだけ子供に対して申し訳なく思った。私がやれることはなるべく最善で行いたいが、その他の人々が彼にもたらす不快や不安を全て取り除けることはできない。私は自分の人生を振り返った時、嫌だったことや苦痛だったことを無限に思い出すことができる。生きているってほとんど嫌なことの連続じゃないか?、そんな場所にこの子を産み落として良かったのか?、と。
 しかしながらそんなことを生まれた子に対してじめじめと引きずっていても仕方がない。彼の人生の多くは彼自身が選択し進んで行くものだし、もしかしたら彼にとって明るくない未来だってあるかもしれない。だけど、それは良くも悪くも物事の道理であって、「人」がどんなに頑張ったって、絶対にこの先に明るい未来がある!、などと確約することはできないのだ。

 前置きが異常に長くなってしまったが、そんな中観たのが『異端の鳥』(2019年)だ。チェコの映画監督ヴァーツラフ・マルホウルが、ポーランド生まれの作家イェジー・コシンスキの原作を映画化したもの。
 第二次世界大戦中の東欧が舞台になっており(街そのものは架空)、ホロコーストを逃れるために両親の元を離れ「おばさん」の家に預けられた主人公の少年が、彼女の死をきっかけに家を飛び出し、生活のために方々を放浪しながらろくでもない目に遭いまくる話。
 169分に渡るモノクロ映画なのだが、音楽もなければセリフも最小限で、無駄を省きに省いた結果、淡々と人間の醜悪ツアーを少年と共に巡る感じになっている。暴力やら性の暴走やら虐待だの殺人だの、とにかく何でもある。少年はただそこにいるだけであらゆる嫌なことに巻き込まれまくる。
 もちろんここには、「ユダヤ差別」という大きなテーマも横たわっているのだが、冒頭で「明るくない未来」に散々思いを馳せているような私からすると、「あっ、こういうこともありうるよな」と何故かストンと納得してしまうのだ。

 人間の悪意って無限に湧くのだが、それを制御するのが正しいことなのかは分からないし、正義と悪は表裏一体だし、その間をいつまでも彷徨い、他者を愛したり他者を憎んで傷つける、それが人間の業ってもんで、この世に生まれた限りもうしょうがないんだなあ。

 ところでラストはわりと救いのあるエンディングだったと思う。もちろん、あれで少年が人間醜悪ツアーの記憶を全て忘れてこれから楽しく暮らしますよなんてことは絶対ないだろうけど。

 それにしても、子供を産んでなおこういう映画を興味深く視聴できてしまう自分にちょっと引いたりもしつつ、その後口直し…っていうか精神回復のためにドキュメンタルを見るなどしましたよ。まだ全部のシーズンを完走していないのですが、私はシーズン1がお気に入りですね。

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