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映画『三度目の殺人』を観て ~決して出会えない「自分」という何か~

◇ 知らない自分が無数に存在する世界 ◇

自分だけが、自分という人間を外側から直に目視することが出来ない。
考えれば恐ろしいことである。
もし自分が他者と同じ目線で自分を見たら、認識しているそれとはまったく違う自分がそこに存在するかもしれないのだから。

大昔、録音された自分の声を初めて聞いた時、大いに戸惑ったことを覚えている。
確か幼稚園の頃だったか。
当時流行していたアニメソングを大声で歌っていたとき、親が面白がってこっそり録音していたのだ。
その声を聞いた瞬間、泣き出しそうになるくらい気持ち悪かった。
今まで聞こえていた私の声とはまるで違ったし、全然好みの声でもなかったので、恥ずかしさと共に強い拒否反応を起こしたのだ。
親目線からは、なんのことはない子の成長を喜ぶ微笑ましいエピソードに過ぎないだろうが、こっちはトラウマ級の戦慄だ。
勘弁して欲しい。
そしてその時初めて私は、第三者から見えているはずの「自分」というものをどうしようもなく不気味な存在に感じた。

ただ、今の時代、音声のみならず、映像も簡単にスマホに残せるようになったから、自分の姿を客観的に確認することが簡単になった。
ゆえに私の幼少時代よりは、主観と客観の自分に大きな違和感を覚える人も少ないのかもしれない。

とはいえ、いかに映像で確認出来たとしても、しょせん映像は映像。
何のツールも通さず、リアルな自分を目の前にして、話す姿や動き、匂い、声、気配などを感じることとは全く別物だろう。
しかし、誰がどれほど強く望もうとも、この世に生きるすべての存在が、自分だけは自分を目視出来ない。
声も聞けない。
匂いも嗅げない。

一体「自分」とはどんな生き物なのか?

誰でも見られるのに、自分だけが見られない自分。
親しい人のみならず、たまたま寄ったコンビニの店員にも、あるいは道ですれ違う赤の他人でさえも見えているというのに、自分のみぞ見ることが叶わない自分。
それは自分であっても、別の次元に存在する別の生き物のようだ。
なのに一生対面出来ぬその不気味な生き物は、常に自分と一心同体であり、一応は自分のコントロール下にある。

自分から見れば、自分はあくまでも唯一無二の存在だが、第三者視点に立てば、見た人間の数だけ自分の姿があるわけで、その知らない夥しい数の顔を想像すると心底ぞっとする。

私はこの『三度目の殺人』という映画を観て、それと似た恐怖を覚えた。

自分が存在する無数の知らない世界のことを思い、この映画の中で言う「器」の意味を少し理解したのだ。
私自身の手を離れた他者の中に存在する私は、きっとその時々の状況で違う物を盛り付けられる「器」なのだろうと、あらためて思った次第で。


◇ 他者にとっては誰しもが「器」である ◇ 

本作の主要登場人物である三隅という男は、勤め先の雇い主を殺害し裁判にかけられようとしていた。
彼は、過去にも一度殺人を犯し服役した過去がある。
その時は死刑を免れたが、二度目の殺人となる今度は、死刑となる可能性が濃厚だ。

そんな三隅の弁護にあたったのが、かつて一度目の殺人の際に裁判長として求刑を出した裁判官の息子、重盛。

当然のことながら「なぜ殺したのか?」が量刑の争点になるため、重盛は三隅の動機を探ろうとする。
しかし、面会を重ねるたびに、動機のみならず、犯行当日の行動の説明まで二転三転。
弁護士として少しでも刑を軽くしようと目論む重盛であるが、三隅の要領を得ない不可解な言動に振り回されるばかり。

そこに浮上するのが、被害者の娘である咲江の存在。
実は咲江と三隅には交流があったことが判明し、ここに殺害の動機があるのではないかと重盛が思い始める。
どうやら三隅は、咲江を娘のように思っていたようだ。
三隅には実の娘がいるが、罪を犯したせいで疎遠になっている。
そして重盛にも、別居している妻と暮らす娘がいた。
つまり、三隅も重盛も娘との関係が良好ではないという意味で共通している。
そのため、娘のように思っている咲江のために殺人を犯したという方向性は、重盛にとってかなり納得出来る線であろう。

その上で、なんと咲江自らが、実父に性的虐待を受けていたと告白。
もう、これで決まり。
ここで、重盛も、そして観客も思いっきり溜飲を下げる。
よかった、めでたし、めでたし。
……とは、ならない。
ある意味、そうならないのが、期待通りなのかもしれないが、とにかく三隅は、ここへ来てわざとらしいちゃぶ台返しをやってのける。
「俺は殺してない!無実だ!」

結局、咲江の虐待事件は表沙汰にならず、三隅は死刑を求刑されて事件は終了。
ここで重盛も、そしておそらく観客も思うのである。

なるほど。
やはり三隅は、咲江を守ったのだなと。

性的虐待の被害者として名乗りを上げれば、咲江がその後に強いられる苦痛は計り知れない。
それを見越して、三隅はまたもや自分を犠牲にして、彼女を守ったのだ。
これで筋は通る。
ここまでの顛末を表面だけ辿れば、どこにも矛盾のない、ただただ悲しい美談として締めくくることが出来る。

しかし、そんな風に重盛が理解しているであろうことも三隅は見抜いており、「それが本当だったら、良い話ですねぇ」なんてしれっと言う。
この人を食ったような三隅の態度こそ、本作の味わいの醍醐味と言えば醍醐味であり、最大のミステリー要素なのであろう。

そこで、「器」の問題へ。

他人の不可解な行動は、おそらく誰にとっても不安なものであろう。
しかし、その動機や理由が判明すれば、少しは安心出来る。
さらにそれを理解し納得出来たならば、より人とのコミュニケーションに対して恐れは少なくなるはずだ。
だから、何としてもその事件の背景にある、わかりやすいストーリーが欲しい。

逆に言えば、ノーリーズンほど怖いものもない。

理解不能、予測不能な物事からは、身を守りようがないからだ。
だからこそ、他者という「器」に色々放り込んでみて、何とか自分が納得出来る形に盛り付けをしてみたくなる。
そうすれば、不安感は多少和らぐだろう。
ましてそれが、予想以上に良い出来映えのストーリーに仕上がれば、己を含蓄ある理解者だと自負出来る。
いずれにせよ、それは他人という立場から勝手に盛り付けをしただけであって、しょせん本人の部分は「器」だけなのだが。
にも関わらず、後から盛り付けた物も全部その人本人の真実ということにして、早々に納得してしまいたい。
それが人間心理なのではないか。

「器」という言葉自体は、映画に登場する刑事のセリフに出てきたものだ。三隅の最初の殺人事件を担当した刑事が、三隅の印象について「空っぽの器のようだった」と語ったのである。
三隅の内側から伝わってくるものが何もなかったことについて、刑事はそう表現しているのだ。
おそらくその刑事も、彼なりに三隅という器に色々盛り付けてみたはず。
しかし入れる片っ端から、それらはこぼれ落ちる。
あるいは、何を入れても大きさがしっくりこない。
どっちにしても、うまく盛り付けられずに断念したのは明らかだ。
そして最後は、空っぽの器だけが残る。
まさに、重盛の徒労と同じ。
どうやらこの三隅という「器」は、そうとうやっかいな形をしているらしい。

とは言え、彼だけが人間として特別なわけではないだろう。
なぜなら、誰しもが自分では目視出来ない「器」としての自分を持っているから。
第三者が見る自分というのは、これすべて「器」であって、相手が何を盛り付けているかなんて知り得ない。
三隅という男が少々珍しい形の「器」であることは確かだが、さりとて多かれ少なかれ、他人から見れば誰しもが不可解な「器」ではないだろうか。

と、ここまで書いて何だが、結局今私が行っていることもまた、この映画という「器」に何かを盛り付ける行為なんだなとふと思った。
『三度目の殺人』という器にぴったり合いそうな理屈を盛り込んで、「この映画が好きだ」と感じた理由を一生懸命説明しようとしているのである。


◇ 『三度目の殺人』という映画の「作り」の秀逸なセンス ◇

真実をつまびらかに明かさない事により、物語に奥行きが出る場合がある。しかし、そのボカしの程度を見極めるのは難しいだろう。
人によって「謎」の適量にもずいぶん差があるだろうし、結局ベストなさじ加減というものは存在しない。
「何を語るか」より「何を語らないか」の方が、創作者のセンスを問われるような気がする。
私は、このボカすセンスの事を「作家性」と言うのではないかと『三度目の殺人』を観て思った。

個人的にはこの『三度目の殺人』、明かされている事と明かされていない事のバランスがとても心地よいと感じた。
余韻、行間、それによって生じる奥行きなど、すべてが映画的である。
核心から少しずれたところで交わされる意味深な会話、何かを象徴している事を強く感じさせる画や構図、そして、登場人物の表情や語気、仕草、さらに、カメラワーク、光、音、音楽などなど。
そういった映画的アイテム一つ一つの中に、きっと真実は細々と散りばめられていたのだろう。
迷宮的世界観に包まれながら、その断片に少しずつ触れていくことがとても快感だった。

被告人の三隅が、北海道出身であるというのもまた、絶妙な設定である。
私も、三隅の出身地である留萌に酷似した北海道の炭鉱町出身だ。
だからこそ合点がいった。
確かに三隅のどこまでも頑ななキャラクターは、北海道の冬を思わせる。
北海道の冬は、どこまでも厳格で、気まぐれで、長い。
吹雪けば一寸先も見えなくなり、道も建物も自然も、すべて重たげな雪で覆いつくしてしまう。
生真面目でありながら、のらりくらりとその場しのぎの言葉を吐き、真実を目くらましにする三隅という男。
北海道の冬は、まるで彼のメタファーのようではないか。
一度そんな風に思い込んでしまうと、万が一にでも、三隅が南国出身という設定はあり得ないような気がする。
核心部分を分厚い何かで覆い続け、頑固に本音を見せようとしないこの三隅という男のプロフィールとしては、極寒、豪雪地帯で生まれ育ったというのが最もふさわしいように思う。

ちなみに弁護士の重盛もまた、道産子である。
彼が三隅の隠す真実を推理する際には、いくらか同郷人としての勘も働かせたのではなかったか。
いずれにせよ真実は、藪の中ならぬ雪の下といったところだろうか。

(END)

『三度目の殺人』
2017年公開/125分/日本
監督:是枝裕和
脚本:是枝裕和
出演:役所広司 福山雅治 広瀬すず


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