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志摩旅(1)*伊能図を手に阿古の海へ


志摩旅は、伊能忠敬の『伊能図大全』を図書館でカラーコピーをしてつなぎ合わせ、近鉄の線路を青ペンで描き足すことから始まりました。

『伊能図大全』河出書房新社 
2013.11.29発行
【第3巻】伊能大図 近畿・中国・四国 
鳥羽(1)鳥羽(2)のコピー

<志摩旅メモ>
図書館で偶然見つけた日本列島全網羅の伊能図。
大型本なので、コピーしても記載されている地名がちゃんと読めてよくわかるのが大変嬉しく、GoogleMapや国土地理院の地図と照らし合わせると現在の線路や道路がとおる地点をちゃんと辿ることができます。これを全て徒歩で実現したのかと思うと、あらためて伊能忠敬と彼の成した地図に驚嘆しました。
伊能図を使うことで大変良いと思ったことが、情報が整理しやすくなること。GoogleMapは情報量が多くてのっぺりしていて「幹」が掴みにくいのですが、伊能図を基本にすると、その地にまつわる情報の「あたり」が付けやすくなります。
今後も、旅に出るとき・旅の計画を立てるときには必須になりそうです。図書館ならコピー機があるので、A3のカラーコピーもOKなのが嬉しいです。

Tomoko Moriyama


名古屋を出発する近鉄特急は、名古屋線、山田線、鳥羽線、志摩線を経由して、英虞湾に面した終点の「賢島」までつながっています。

伊能図では「カシコ山」。
地図をみると改めて、ここが陸つながりではなくて「島」だということがわかります。

『伊能図大全』河出書房新社
【第3巻】伊能大図 近畿・中国・四国 
鳥羽(2)の部分


Wikipediaによると、この島へは潮が引いたら歩いて渡れるほどの距離だそう。なので電車に乗っていても橋を渡ることに気がつかなかったのですね。


賢島(かしこじま)という名前も、徒歩(かち)で越えることのできるという意味の「かちごえ」が語源であるらしく、この地と海に暮らす人々にとっては、船で渡る「島」というよりも、歩いていくことができる「山」。
だから伊能図には「カシコ山」と書かれているのでしょう。

<志摩旅メモ>
海に暮らす人々にとって、とても重要な潮の満ち引き。
気象庁からは、こんな情報も詳細に告知されていますので、旅の日の潮の干満を事前に知っておくと、旅の計画が広がりそうです。

Tomoko Moriyama


今回の旅の宿は、かつて「合歓ねむの郷」とよばれたNEMU RESORT。でもこのホテルのある半島には名が記されていませんので、近代になるまで人がほとんど立ち入らない場所だったことを想像しました。



志摩は、江戸時代まで「志摩國しまのくに」とよばれていました。
中央構造線の南、紀伊半島の東端の太平洋に面したところに位置しています。

地図でみると、四国から紀伊半島にかけての太平洋側は、すぐに山が迫っていて、平地がとても少ない地形。

国土地理院地図より
青:5m以下
水色:25m以下
緑:100m以下
オレンジ:1000m以上
志摩國の海


このギザギザした海岸線を眺めているうちに、こんなことを思いました。

2023.2.17のメモ
by Tomoko Moriyama

<志摩旅メモ>
ここへは海からしか行けない。
もしかしたら「シマ」というのは、海からしか行けない処を指す言葉だったのでは。(陸からの道がない、もしくはまだ知られていない処)
そうしたシマばかりなので、そのまま「しま(志摩)」と呼ばれるようになった国。

「ヤマトの国」「ツの国」「キの国」「シナノの国」・・。
他の古代日本の国々の名もきっと、その地の風土の特徴に対しての人々の自然な感覚がそのまま名となっていったのでしょう。

Tomoko Moriyama

<志摩旅メモ>
シマへ行くには泳いで行くか船が必要です。泳ぐことができないくらいに遠いシマへは、人自身の力だけは行くことができません。
けれど、空を飛ぶ鳥は自由に行くことができます。だから「島」の本来の字(旧字)である 「 」には「鳥」が付いているのでしょう。

鳥は、海の向こうへ消えて、また季節がめぐると海の向こうからやってきます。古代においては、鳥も船も、海の上を移動できるという「能」(能力)を持つ存在として同じであると認識されていたのかもしれません。
鳥=舟 というのは、古くより一般的だったようで、船を数える「隻(せき)」という単位の文字に「隹(ふるとり)」があるように、そして国語辞典には「隻」は鳥を数える単位であると書かれていますし、『日本書紀』にも瑞鳥の数を「隻」で記しています。

なので、日本列島にすでに居た人にとって、何も見えない海の向こうから、はるばるやってきた人々の姿は、鳥の化身に見えたのでしょう。
『古事記』や『日本書紀』の中に、経津主神ふつぬしのかみの「天鳥船」や饒速日命にぎはやひのみことが乗ってきた「天磐船」が出て来るのは、そうした人々の姿を言葉にしたものだったと思われます。
海も空(天)もどちらも「あま」というのも、そんなことから繋がっていきそうです。

Tomoko Moriyama

下の絵は、弥生時代の船の様子が描かれた壺(鳥取県出土)
オールで船をこぐ姿は、まるで鳥が羽ばたいているように見えます。

鳥取県米子市淀江町稲吉にある「稲吉角田遺跡」から出土した大きな壺に描かれた絵の写し
2020.10.15(no.7)by Tomoko Moriyama


そんなことが思い巡りましたので、志摩への旅は、海から行くのが本来の姿だと思いました。
けれど今回は、新幹線で名古屋まで行って、名古屋から近鉄特急で行く旅程。ちなみに、海から志摩へ行く方法もちゃんとあって、鳥羽の対岸に位置する渥美半島(愛知県)の伊良子岬からはフェリーで鳥羽へ渡ることができます。別の機会にはこちらの旅も是非に。

<志摩旅メモ>
新幹線の停まるJR豊橋駅から豊橋鉄道渥美線と豊鉄バスを乗り継ぐと、伊良子岬のフェリーの乗り場へ行くことができます。
この航路は、ちょうど伊勢湾の入り口に位置する神島のそばをとおりますので、伊勢湾の奥を目指した古代の海人族が見た景色を追体験できそうです。

Tomoko Moriyama


そうして、志摩旅の一日は英虞湾をゆっくり楽しむことに決定。

英虞あご湾は古代には阿胡あこの浦と呼ばれていて、万葉集にも歌があります。「あご/あこ」は阿古、阿胡、安胡、阿児、英虞と、いろんな字があります。
今は合併して志摩市となっていますが、賢島の北にある鵜方うがた(下図の伊能図では鵜方村)のあたりはかつて阿児あご町と呼ばれていました。

どうして此処を「あこ」と呼んだのだろう。

そんなことを思いながらこの海の様子を見ていると、南から西に伸びた半島が腕のように見えて、まるで海を抱っこしているよう。それは我が子を優しく抱きかかえている姿に似ていて、もしかしたら「あこ」というのは「吾子」のことなのかも。

伊能図大全』河出書房新社
【第3巻】伊能大図 近畿・中国・四国 
鳥羽(2)の部分
英虞湾と先志摩半島

安胡の浦に 船乗りすらむ 少女らが 赤裳の裾に 潮満つらむか

万葉集 巻十五 3610

<志摩旅メモ>
この歌の詞書には「所に当りて誦詠せる古歌十首のひとつ」とあって、遣新羅使人によって口誦された歌と解説されています。白村江の戦いのあと新羅との間で使節が行き来していますが、新羅への航路を考えると、この「あこの浦」というのは、志摩ではないかもしれません。けれど、きっと同じような形をした浦が、新羅へ向かう途中にあったのでしょう。おしゃれをした少女たちが船遊びができるくらいに穏やかな浦が。

Tomoko Moriyama

英虞湾で船乗りしたい。

それを叶えようと調べていましたら、宿のNEMU RESORTには船着場があって、賢島からマリンタクシーのサービスがあることがわかりました。
けれどあいにく時間が合わなかったので、代わりに賢島から太平洋側に突き出た先志摩半島の和具わぐをむすぶ定期船に乗って、半島の西端にある金比羅山の山頂の展望台へ行くことに。


金比羅山の山頂は英虞湾と太平洋と360°に見渡せる場所。
つまり志摩の金比羅山も、ここを目指す人々にとって海上からよく見える目印の山だったのでしょう。

帰りの定期船は夕刻の便にしましたので、黄金色に輝く英虞湾を船で行くことができました。

夕暮れの英虞湾
後方は先志摩半島。右端の突き出た山が金比羅山。
*和具→賢島の定期船上から撮影
夕暮れの英虞湾と先志摩半島
*和具→賢島の定期船上から撮影


そして翌朝、NEMU RESORTの船着場へ行ってみました。そこは『紅の豚』のポルコの飛行艇がこっそり隠れていそうな小さな入江。

<志摩旅メモ>
日本語では入江のことを浦といいます。
この「うら」というのは表からは見えないところの意。
裏も浦も「うら」といい、人の面(おもて)に対して心のことも「うら」といいました。

Tomoko Moriyama

この小さな浦を見たとき「あっ」と息をのみました。
それは志摩の素顔を見たような気がしたから。

古代の海人族も、中世に熊野灘を縦横無尽に行き来した人々も、阿古の海に無数にあるこうした浦に、しばし船を休めたことでしょう。

NEMU RESORT マリーナ


シマに抱かれ、鳥となって、今度は船で、この浦へ。





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