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la la la 57. "リリーのすべて” にならう、あなたの中の「真実は一つ」(By 古の魔女の処方箋③)

こんにちは。ここ数日、何となく同じようなメッセージをくり返し感じているので、今日それについて書いてみることにします。
あなたの中の真実は一つ。そしてそれは絶対に間違っていない、ということについて。

ここ数日、退院したからと言って調子に乗らないよう、ゆるりと過ごしていて、忙しい時期には見られない映画なんかも家で観ています。気になっていた映画を2つ、日を変えて観ました。
一つは ”シェイプ・オブ・ウォーター”
もう一つは"リリーのすべて” 
その合間にテレビでたまたま、発達障害の漫画家のドキュメンタリーと、
世界遺産に登録された長崎の”隠れキリシタン” 関連の場所を巡る旅、を観ました。くり返しわたしの中に入ってきたメッセージは、
時代や場所を問わず、社会のマイノリティとして生きる、ということについてです。(以下、ネタバレはしませんが多少触れます)

シェイプ・オブ・ウォーターでは、南アフリカで見つかった知的生命体と、生まれつき声帯に損傷があって声が出せない女性の恋愛を描いていて、その一風変わった恋愛を応援してくれる隣人男性も、性的にはマイノリティです。

「リリーのすべて」は世界で初めて性適合手術を受けた男性と、女性として生きる決断をした彼(夫)をそれでも愛し支えていく妻の物語。実話を元につくられています。時代は1920年代、日本は昭和が始まったばかり。この頃、トランスジェンダーなんて言葉もなく、リリーとして生きたいと願う男性を医者達は「精神病」と片付け放射線を浴びせたり、拘束させたり、異常者として扱います。「あなたは病気じゃない! だからもう病院に行かなくていい!」そう言ってリリーを支えるのは、彼がリリーになっていくことで、自らの夫を失っていく、妻本人なのでした。

そして今朝特集をしていた ”隠れキリシタン” 関連の場所を巡る旅の特集。
これは放送している人たちに罪はないし、日本がこれで盛り上がるのも、隠れキリシタンという人たちがいたことを知ってもらうのも大切なことなので放送に文句はないのですが、何ていうのかな、こう、世界遺産になって街が賑わって、ビードロとかインスタ映えする可愛い雑貨なんかも売っていて、たくさんの人がpopな気持ちで訪れているのですが、そうやって訪れる大多数の人間、すなわちマジョリティこそが、まさにあの頃、キリシタンたちを追い込み、世界の片隅に追いやっていたというこの、何とも言えない気持ちを、画面を観ながら感じてしまいました。
当然生きている時代が違うし、今その場所を訪れているあなたが! という限定的な意味合いではないのですが、マジョリティたちによって苦しめられたマイノリティの、息さえも聞こえぬようにひっそりとしていた日々の足跡を、今またマジョリティがポップに旅しているという、その事実に、
わたしは何とも言えない気分になってしまったのです。

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突然ですが、まさにこれこそ「愛とは何か」という「愛を問う」課題だなと強く思いました。つまりじぶんにはない感性、じぶんには解らない価値観で生きていく人を理解し、関わっていくということ。慮る想像力も愛の一つです。男なのに女の格好してる気持ち悪い! じゃなくて、もし明日起きてじぶんの体が男になっていたら、じぶんはどうかな、とか。女に戻りたいかな。じゃああの人はそういう気持ちなのかな、とか。

本当は、マジョリティ、マイノリティなんてざっくりした分け方は良くなくって、それは色を寒色と暖色の2つで判断するのと同じ、発達障害の人たちは障害というよりむしろ冴えているので、彼ら彼女たちからしたら、深緑とターコイズブルーは全然違う色。そのように考えると、実際、性別だって、本当は何種類あるかわからない。男っぽい奥さんと繊細な夫の組み合わせはもしかしたら内的には太陽と月が逆かもしれない、けれども身体的に男女の組み合わせで結婚しているから”普通”に見えているだけ。
でも、じゃあ "普通” って何なんだろう?

「リリーのすべて」では、自身の中に女性がいると気づき始めた夫の変化に妻は苦しみながらも、女性として生きていこうと決心する夫をーーもはや夫という状態なのかもわからなくなっているなかでーー心の中にリリーが棲んでいる彼そのものを丸ごと、理解し受け止めていこうともがきながら向かい合います。その愛に打たれわたしは、彼女の子宮は海なのだ、広くて、深く、時に大きく荒れながらそれでも何事も飲み込み平らにしていく海なのだ、と思ったのですが、もはやこの夫婦の関係って男女とか、普通とか普通じゃないとかそういう段階を超えて、まさに魂のみ、というか心を持つ生命体としての深い絆とつながりになっていて、それはシェイプ・オブ・ウォーターの、未知の生き物とヒロインの関係性ととても似ています。

互いが互いを理解し垣根を壊し繋がってゆく過程で、当然満たされないじぶんというのにも直面します。たとえば妻は、リリーになっていく夫を受け入れ愛しているけれども、時にじぶんも女性として、男性である夫にぐっと抱きしめて欲しい日がある。でもそれはもう叶わない。
リリーも妻を愛してるけど、男性として彼女と交わることはメンタル的に、もうできない。こういった時に愛はいつでも試されている。
愛とは何か、何を愛と呼ぶのか。
何を持って愛とするのか。

今の世の中でもきっと、自分の中の真実は一つだけど、社会や人間関係のしがらみのなかで、それを口に出せず、心の奥に仕舞い込んで生きている人が、実はたくさんいると思います。
社会ではその個人の想いや考えに対しての心ないジャッジがまだ多くて、
その心ない言葉に傷つけられ、もうこれ以上傷つけられたくないから、そのことは忘れるようにしたり、なかったことのようにして生きている人たちがいるかもしれない。そして次第に、その自分の中の「真実」すらも、
「そう考えている自分が間違っているのかな」と考え始めてしまう。

でも、あなたの中の真実は1つ。そしてそれは絶対に間違っていません。間違っているはずがない。あなたが信じていることなのだから。
いちいち社会に向かって声に出すことだけを勇気と言わないし無駄に傷つかなくていい。でも「間違っていない」「これが真実だ」と思う気持ちは、とても大切にして欲しいのです。リリーが”精神分裂” ”異常者” と言われながらも、自分の内なる声を信じたように。
そして、じぶんの中の真実の存在の払拭よりも大切なのは「普通」とか「普通じゃない」とかを超えて、あなたを丸ごと理解してくれようとする存在と、その存在との関係性が大切なのだと思います。

その時、世界は、あなたとその理解者だけでできている世界でよくって、その外がどれだけ騒がしくとも、それらはただのガヤにすぎない。

たとえばわたしには好きな人がいますが、その人に救われているのは ”君は宇宙人だから頑張って人間のふりをしなくていい”と言ってくれる言葉です。またわたしは彼のことを、半分生きていて半分はこの世界に存在していない人じゃないかな、と思っています。日の光の当たる時間は影が立って歩いているような感じじゃないかなって。
こんな、普通に言うと”意味不明”なわたし達がどういう部分で繋がっているか、当然普通の言語で説明できないし、社会や周りにも理解を求めるのは難しい。わたしと彼は恋人関係ではないので、関係性すらもあやふやです。
でもその独特の感覚で、自分たちは理解しあっているのです。
エーテル関係です、言うならば。
(ほら、こんなおかしなことを言ってる人がこの日本にいます。笑)

あなたを理解してくれる大切な誰か。たった一人でいい、見つかるといいなと思います。そして、一人でもそういう相手が思い当たるなら、それ以外のガヤのことは無視して生きて行きましょう。
本当はみんなが、普通のふりをしているだけの、何百万通り、何千万通りの雑多な個性と特性を持つ、知的生命体なのです。
お願いだから普通でいてくれ、と言ってくるその相手の方が、
よっぽどあなたの方が普通じゃないよ、っていう嗜好や癖を持っているかもしれません。というか持っています。
普通、なんていう基準は、本当はないのだから。

わたしは、あなたを理解したいと思います。
わたしはあなたを、応援したいと思います。
信仰や性別や人種や言葉や、モラルさえも時にこえて。

それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆



嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ