現代版・徒然草【63】(第232段前半・意識高い系①)

「本当に賢い人は、自分が知っていることでもペラペラしゃべらないものだ。」

というのは、よく言われることである。まさに、そうなのだが、世の中にはいろんなタイプの人がいて、職場でも「なんか鼻につくなあ」という人はときどきいる。

兼好法師自身も、若い人に対して、同じような気持ちを抱いたようである。

では、原文を読んでみよう。

①すべて、人は、無智・無能なるべきものなり。②或る人の子の、見ざまなど悪しからぬが、父の前にて、人と物言ふとて、史書の文を引きたりし、賢(さか)しくは聞えしかども、尊者(そんじゃ)の前にてはさらずともと覚えしなり。
③また、或る人の許にて、琵琶法師の物語を聞かんとて琵琶を召し寄せたるに、柱の一つ落ちたりしかば、「作りて附けよ」と言ふに、ある男の中に、悪しからずと見ゆるが、「古き柄杓(ひさく)の柄(え)ありや」など言ふを見れば、爪を生ふしたり。
④琵琶など弾くにこそ。
⑤盲(めくら)法師の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。
⑥道に心得たる由(よし)にやと、かたはらいたかりき。
⑦「柄杓の柄は、檜物木(ひものぎ)とかやいひて、よからぬ物に」とぞ或る人仰せられし。
⑧若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

以上である。

今日は、文章がちょっと長いので、①②だけ解説し、③から⑧は明日にしよう。

①の文では、「無知無能」が良いと言っているわけではない。「知っていても知らないフリをして振る舞うのがよい」と言っている。

②では、子どもの事例を挙げていて、中国の史書からの引用文を、父親の前で得意そうに話しているのは確かに頭の良い子ではあるが、目上の人の前でそんなふうに振る舞わなくてもよいのにと苦言を呈している。

私の個人的な意見としては、まあ子どもはそんなもんだと思う。目くじらを立てるほどでもない。

SNSが当たり前になった現代においては、インスタやユーチューブでもそうだが、目立ちたがり屋が増えたような気がする。

イイネをたくさんもらうことや、人から注目されたいのが目的で、常軌を逸した行動を取る人もいる。

知識やスキルは、世のため人のために、いざというときに活かせば、かっこいいのだが。大切なのは、他人の評価ではなく、人の役に立てたかどうかなのである。


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