【続編】歴史をたどるー小国の宿命(11)

赤松氏が南朝勢力から神器を取り返したことで、幕政に復帰したとき、8代将軍の義政は22才だった。

さて、この義政だが、自分の跡を継いでくれる男の子がなかなか生まれず、将軍の座を弟の義視(よしみ)に譲ろうかと考えていた。

1464年、28才になった義政は、次の将軍を義視とする約束をして、自分は隠居の準備を始めた。

ところが、その翌年、妻である日野富子(ひの・とみこ)が、まさかの男児出産をしたのである。

日野富子は、夫である義政に、生まれた我が子を次の将軍にするように迫った。だが、義政はどういうわけか、決断ができない男だった。

この件に限らず、義政は、政治を行うにはあまりにも無能であり、側近の守護大名も、命令を聞かずに好き勝手に行動することが多かった。

そんな夫の煮えきらない態度に不満が爆発した日野富子は、守護大名の山名宗全(やまな・そうぜん)に、息子を跡継ぎにするための根回しを依頼した。

ところが、これに黙っていなかったのが、同じ有力な守護大名である細川勝元(ほそかわ・かつもと)である。

赤松氏と山名氏は、第5回でも述べたとおり「四職」である。細川氏は、それよりも側近になる「三管領家」に入っている。

しかも、義政の弟の義視を補佐する立場になることが約束されていたのである。

細川氏と山名氏は、もともと仲が悪く、義政の跡継ぎが問題になったことで、関係悪化はさらにエスカレートした。

日野富子の親族も山名氏とともに、細川氏と対立したことで、3年後の1467年、とうとう応仁の乱という大きな争いが勃発したのである。

歴代将軍なら、南北朝合一を実現させた足利義満や、恐怖政治を行った足利義教のように、こうした争いを力でねじ伏せて抑え込むものだが、8代将軍の義政は、奥さんにさえ愛想を尽かされるほど、つくづく無能だったのである。

31才になった義政は、将軍の座を降りるどころか、1473年まで引き続きとどまることになる。

父親の義教は、強権政治によって暗殺されたのに、命を狙われることもなく居座り続けられたのは、隠居の準備をしていた本人にとっては不本意だったかもしれないが、甚だ滑稽な状況であったといえよう。





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