古典100選(36)俊頼髄脳

今日は、紫式部と親交があり、藤原彰子に仕えていた伊勢大輔(いせのたいふ)が出てくる古典作品『俊頼髄脳』(としよりずいのう)を紹介しよう。

藤原彰子は、知る人ぞ知る藤原道長の長女であり、一条天皇の后であった。

念のために言うと、伊勢大輔は女性であり、有名な歌人なので、彼女の和歌も百人一首に入っている。次の歌である。

いにしへの    奈良の都の    八重桜
けふ九重に    にほひぬるかな

さて、『俊頼髄脳』の説明だが、これは源俊頼(みなもとのとしより)が書いた歌論書である。1113年に成立したもので、平安時代後期の作品である。

先週は、鴨長明の『無名抄』という歌論書を紹介したが、ここで登場する藤原俊成は、この歌論書の成立した翌年に生まれている。

そして、源俊頼は、藤原道長や紫式部が亡くなってだいぶ経ったあとの1055年に生まれている。このとき、伊勢大輔は、まだ生きていたようである。伊勢大輔は、藤原彰子とほぼ同い年であり、紫式部が『源氏物語』を発表した1008年頃は、2人とも20才であった。

藤原彰子は、父の道長以上に長生きして、1074年に86才で亡くなっている。伊勢大輔も、少なくとも源俊頼が5才くらいの頃までは生きていたのではないかと言われている。(その頃は70才になっている)

では、原文を読んでみよう。

道信の中将の、山吹の花を持ちて、上の御局(みつぼね)と言へる所を過ぎけるに、女房たち、あまた居こぼれて、「さるめでたきものを持ちて、ただに過ぐるやうやある」と、言ひかけたりければ、もとよりやまうけたりけむ、 

くちなしに    ちしほやちしほ    染めてけり 

と言ひて、さし入れたりければ、若き人々、え取らざりければ、奥に伊勢大輔(いせのたいふ)が候ひけるを、「あれ取れ」と、宮の仰せらければ、受け給ひて、一間(ひとま)がほどをゐざり出でけるに思ひ寄りて、

こはえも言はぬ    花の色かな 

とこそ、付けたりけれ。
これを、上、聞こし召して、「大輔なからましかば、恥がましかりけることかな」とぞ、仰せられける。 
これらを思へば、心疾きも、かしこきことなり。
心疾く歌を詠める人は、なかなかに、久しく思へば、悪しう詠まるるなり。
心遅く詠み出だす人は、すみやかに詠まむとするもかなはず。
ただ、もとの心ばへに従ひて詠み出だすべきなり。

以上である。

最後の「心疾く歌を詠める人は」とあるように、この歌論書は、心疾く(=機微に)下の句を詠んで返した伊勢大輔がお上に褒められた(=「伊勢大輔がいなければ恥をかくところだった」)出来事を取り上げている。

道信の中将が、山吹の花を手に持って、「くちなしに ちしほやちしほ 染めてけり」という上の句の五七五を伝えたのだが、誰も下の句を返す自信がなくて黙っていたのである。

くちなしの花の色は白だが、その実は黄色の染料のもとになる。だからこそ、同じ黄色の山吹の花を手に持って、道信の中将は上の句を詠んだわけであり、これに対して伊勢大輔は、「これはなんとも言えない花の色だなあ」と詠んだ。

この「えも言はぬ」を「くちなし(=口無し=黙っている)」に掛けているところが秀逸である。

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