現代版・徒然草【65】(第85段・人の性〈さが〉)

私たちは、どこまで自分を偽って、長い人生を賢く生き抜くことができるだろうか。

では、原文を読んでみよう。

①人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。
②されども、おのづから、正直の人、などかなからん。
③己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常(よのつね)なり。
④至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。
⑤「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と謗(そし)る。
⑥己れが心に違へるによりてこの嘲(あざけ)りをなすにて知りぬ、この人は、下愚(かぐ)の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮にも賢を学ぶべからず。
⑦狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。
⑧悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
⑨驥(き)を学ぶは驥の類(たぐ)ひ、舜(しゅん)を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。
⑩偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

以上である。

①から④までまとめて解説すると、「人の心は素直ではないので、偽りがないとは限らない。ただ、まれに正直な人がいないわけではない。自分が素直ではないので、他人の賢さを見て羨むのは世の常だ。本当に愚かな人は、そういった数少ない賢い人を見て憎むものだ。」ということである。

⑤と⑥の文では、本当に愚かな人の例を具体的に説明している。「大きな利益を得ようとして、少ない利益は受けずに、自分を偽り着飾って名誉を得ている」として、賢い人をけなしているが、そもそも気持ちのありようが違う(=ひねくれている)から、他人をけなす性分から抜け出せず、小さな利益を辞退することもできず(=目先の利益に執着していてあさましい)、賢い人から学ぶことをしない。

⑦から⑨までの文にも書かれてあるとおり、キチガイのマネで大通りを走ったらキチガイだし、悪人のマネで人を殺せば悪人である。ある馬が名馬から学べば、その馬は名馬の類に入るし、(中国の昔の高徳な皇帝の)舜に学べば、舜の同志になりうるのだと言っている。

最後の⑩の文で締めくくっているとおり、偽りでも嘘でもいいから、自分をだまして賢者から学ぶ人こそ、賢い人なのである。

生まれつき賢い人などほとんどいない。

世渡り上手な人は、幼いときから成功している人のやり方を自然と身につけて、偽りの自分を見せて生きているのである。

そういった意味では、一人になる時間を確保できるかどうかは、その人にとって死活問題である。


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