歴史をたどるー小国の宿命(92)

建武3年の正月、足利尊氏は、敗走する新田義貞を追いかける形で、とうとう京都入りを果たした。

後醍醐天皇は、尊氏の入京を聞いて、比叡山に逃れた。

だが、その後、尊氏は、楠木正成と新田義貞の連合軍に迎え討たれ、逆に敗走することになる。

それでも反撃の機会をうかがって、2月に今の大阪府箕面市・池田市にあたる豊島河原の戦いで、再び新田義貞と戦ったのだが、またもや敗れた。

部下の進言もあり、尊氏は、今の兵庫県の播磨国に逃げ、最終的には九州に一時とどまった。

九州には、ただとどまっていたわけではなく、後醍醐天皇側の武士たちと戦い、西国の武士を自分の味方につけて、勢力拡大を図っていた。

態勢を立て直した尊氏は、再び上洛を目指し、5月下旬に今の兵庫県神戸市にある湊川の戦いで、ついに楠木正成と新田義貞の連合軍に打ち勝つ。

そして、6月には京都をほぼ制圧したのである。比叡山に逃れていた後醍醐天皇は、和睦のために、歴代天皇が所持する神器を、光厳上皇の弟である光明(こうみょう)天皇に譲る。

これをもって、次期天皇の座に光明天皇が就いたことになるのだが、実はこれが終わりではなかったのである。

室町幕府は、こうした混乱の中、足利尊氏によって樹立された。

足利尊氏と戦った名将・楠木正成は、湊川の戦いで最後は自害して亡くなった。

しぶとい後醍醐天皇は、その後どうしたのか。これが、南北朝時代の始まりとなるのである。




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