【続編】歴史をたどるー小国の宿命(16)

室町幕府の序列の話をすでにしているので、覚えている方もいるかと思うが、将軍に次ぐ最高の役職が、三管領家と呼ばれる守護だった。

その三管領家には、これまでにたびたび登場した細川氏のほかに、畠山氏と斯波(しば)氏がいた。

それだけ高い役職なのだから、影響力も大きかったし、京都以外にも領地があったわけである。

繰り返すが、細川氏も畠山氏も斯波氏も守護である。

ただ、守護の下に「守護代」という役職があり、今の時代の例で言えば、課長の下の課長代理みたいなものが、当時はあった。

課長の仕事を代理で行うのが課長代理であるように、守護の任務を代理で行うのが守護代であった。

三管領家と呼ばれる守護は、京都が政治の中心であるから、公務のために京都にいることが多い。

そうすると、京都以外の領地まで目が行き届かないから、守護代を立てて、留守役を任せるのである。

斯波氏の領地は、越前国(今の福井県)、遠江国(今の静岡県西部)、尾張国(今の愛知県西部)の3か所あった。

そのうちのひとつである尾張国の守護代が、織田氏だったのである。

斯波氏の留守中に、織田氏は徐々に権力を高めていき、その地位は斯波氏を上回り、とうとう1515年に斯波氏の権威は失墜した。

1511年に信長の父親の信秀が生まれ、信秀が23才のときに、信長が誕生した。そのとき、すでに織田氏の権力基盤は確立していたわけである。

また、それ以前に、斯波氏は、越前国の守護代の甲斐氏や重臣の朝倉氏にも牛耳られている。

尾張国のさらに東の遠江国も、駿河国の守護であった今川氏に奪われた。

こうしてみていくと、守護の留守を預かる守護代がぐんぐんと力をつけてきて、今川氏のような元からの守護と肩を並べるくらいにまで成長したことが分かるだろう。

最終的に、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破ったのも、以上に述べたような権力基盤がなかったら、実現し得なかったことなのである。






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