【続編】歴史をたどるー小国の宿命(12)

応仁の乱は、約10年続いたとされているが、山名宗全と細川勝元の対立に限れば、1474年の春に戦いは終わっている。

足利義政が、息子の義尚(よしひさ)に譲位したのも、1474年の年明けであった。

このとき、すでに山名宗全は70才になっており、戦う体力も落ちてきていたから、一説では和睦を望んでいたようだ。

義政の弟の義視は、当初は義政から譲位されるはずだったが、応仁の乱の最中に、義政に反発して山名軍の仲間になった。

ところが、その山名軍のトップである宗全が、気力も体力も限界となると、山名軍の勢いは次第に弱くなってきた。

そうすると、細川勝元は、戦局が有利になるはずだが、どうしたことか、細川勝元も山名宗全の後を追うように5月に病死した。勝元は、まだ44才の若さだった。

こうして、細川勝元の息子である政元と、山名宗全の孫である政豊が和睦を結ぶことになり、一連の戦いは終わったのである。

さて、義政は、息子の義尚に譲位して、めでたく隠居かということだが、どういうわけか、さらに15年も実権を握り続けたのである。

しかも、息子である9代将軍の義尚が24才の若さで亡くなるまで実権を握っていたのだから、あきれた話である。

結局、義政は息子の死の翌年に55才で亡くなり、自分が要望した銀閣寺の完成も見ないままに生涯を終えたのである。

祖父の義満が建てた金閣寺に憧れて、東山山荘に移り住み、のんびりと銀閣寺のそばで余生を過ごすのではなかったのだろうか。

そういうわけにもいかなくなったのは、戦乱の時代がそうさせたのか、息子の義尚を放っておけなかったのか。

将軍としての器ではなかったが、文化人の素養はあり、彼のおかげで、東山文化として「枯山水庭園」や雪舟の水墨画が広まった。

現代の日本人の美意識の出発点は、義政の時代にあったともいえるのである。

1490年、将軍の義尚に続いて義政が亡くなったことで、室町幕府はいよいよ衰退の一途をたどることになったのである。



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