【続編】歴史をたどるー小国の宿命(51)

大坂冬の陣では、真田幸村の活躍もあって、徳川家康は一旦和睦を結び、撤退した。

しかし、和睦も作戦のうちであり、家康は和睦の条件として、豊臣方に大坂城の外堀を埋めるように言ったのである。

このとき、和平交渉の中心にいた豊臣方の人間は、秀頼の母親であった淀殿(よどどの)であった。

淀殿は、豊臣秀吉の妻であったわけだが、もとは織田信長の妹だったお市の方の娘である。

お市の方が、秀吉によって自害に追い込まれた柴田勝家と結婚したこと、勝家とともに自害したことは、以前の記事でも解説している。

そんな母(=織田信長の妹)の血を引いていたこともあってか、淀殿は、「大坂城のおんな城主」と言ってもよいくらい、強く生きた女性だった。

自分の母親が秀吉によって殺されたも同然なのに、その秀吉と結婚するのは、相当な忍耐強さがなければできなかっただろう。

そして、秀吉との間に生まれた息子の秀頼を守るために、大坂の陣では、自分が矢面に立ち、家康と対峙したのである。

秀頼はこのとき22才、淀殿は46才であった。

ここで、秀頼と淀殿に関係のある2人の人間を紹介しておこう。

秀頼は、誰と結婚したかというと、実は、2代将軍の徳川秀忠の娘である。千姫(せんひめ)と聞けば、思い出した人もいるだろう。

なぜ秀忠の娘(=家康の孫である)が、秀吉の息子と結婚したのかは、結婚したのがいつかを調べれば分かる。

千姫が秀頼と結婚したのは1603年であり、千姫が7才のとき、秀頼が10才のときである。

1603年は、すでに関ヶ原の戦いが終わっていて、家康が江戸幕府を開いた年である。秀吉もこの世にいないし、家康が天下一になったにもかかわらず、なぜわざわざ、かわいい孫娘を嫁がせたのか。

今では考えられないことかもしれないが、いずれは豊臣家を滅ぼそうと家康がこのときから企んでいたのだとしたら、千姫はスパイとして送り込まれたも同然なのである。

今で言えば、小学4年生と1年生が結婚するようなもので、大人の事情などまだ分かりっこない年頃である。

このときから家康が種をまいていたのだとしたら、家康の策略恐るべしである。

明日は、もう1人、淀殿に関係のある人物を紹介していこう。








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