【続編】歴史をたどるー小国の宿命(14)

現在、日本にある仏教の宗派の数は、大きなかたまりで捉えると13である。

飛鳥時代や奈良時代に仏教が広まったことはよく知られているが、そのときの宗派は、法相宗(ほっそうしゅう)と華厳(けごん)宗と律宗(りっしゅう)であった。

法相宗は、奈良の興福寺や薬師寺が本山であり、三藏法師が伝えた。華厳宗は、聖武天皇が大仏を建立したように、奈良の東大寺が本山である。律宗は、開祖である鑑真が来日して唐招提寺を建てた。これも、奈良県にある。

その後、平安時代になると、密教系の仏教が最澄や空海(=弘法大師)によってもたらされ、二人が広めたのが、それぞれ天台宗と真言宗であった。天台宗は、滋賀県大津市の比叡山延暦寺が本山である。真言宗は、京都の東寺(=教王護国寺)が本山である。

鎌倉時代には、浄土教系の仏教が広まり、融通念仏(ゆうづうねんぶつ)宗や浄土宗・浄土真宗、時宗(じしゅう)が信仰の対象になった。

さらに、禅宗系の仏教が伝わり、臨済(りんざい)宗・曹洞(そうとう)宗・日蓮(にちれん)宗が広まった。あまり聞き慣れないが、江戸時代には、黄檗(おうばく)宗も伝えられた。

これらの宗派のどこと、加賀国が結びつくのかというと、浄土真宗の本願寺派が、加賀の一向一揆当事者である。浄土真宗本願寺派の本山は、京都市下京区にある西本願寺である。

各地の守護大名が、室町時代初期から力をつけていく中で、こういった宗教団体の組織力もだんだんと無視できない規模になったのである。

加賀国の守護だった富樫政親は、一向宗(=浄土真宗本願寺派)門徒の組織力に不安を感じて、門徒の弾圧を図ったのである。

ところが、政親は逆に自害に追い込まれ、その後、一向宗門徒たちによる支配の時代になるのである。

信じられないかもしれないが、当時、政親の軍は1万人、一向宗門徒全体で20万人であった。また、忘れてはならないのは、地方には土着の豪族や農民たちがいることである。

彼らが武器を持って束になってかかれば、いくら守護大名といえども、数で負けてしまうのである。

こうして、加賀国は、しばらくの間、「百姓の持ちたる国」と言われるほど、異色の存在となった。

もはや室町幕府の手には負えず、こういった下剋上の世の中で、織田信長もそうであるが、柴田勝家や上杉謙信などの名将が続々と現れることになったわけである。





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