歴史をたどるー小国の宿命(78)

文永の役が終わって1年後、また元から使者が日本にやってきた。「杜世忠」(とせいちゅう)という官僚が使節団を率いて来日したのである。

彼の役割は、日本に降伏を勧めることであった。

杜世忠ら一行は鎌倉へ連行され、北条時宗と対面することになった。当然のことながら、時宗はこれを聞いて、不快感を示した。

そして、その場で斬首を命じたのである。杜世忠は、34才の若さで絶命した。このとき、時宗はまだ25才だった。

その頃、中国大陸にいたフビライ・ハンは、こうした状況がすぐには耳に入るはずがなく、杜世忠の帰りを待ちながら、南宋を滅亡に追い込んでいた。

南宋は、平清盛が日宋貿易に力を入れていたときから存続していたが、1279年にフビライ・ハンによって完全に滅亡した。

この勢いで、フビライ・ハンは、再度、日本を侵略しようと目論んでいたが、側近たちの中には賢明な者も何人かいて、日本侵略を断念するよう諫言していた。

南宋が滅亡した同年、再び、元の使節団が来日するのだが、今度は鎌倉まで行くことは叶わず、太宰府で斬首された。

フビライが黙っていられるはずはなく、こうして、2年後に弘安の役が起こることになる。

しかし、今では、日本と友好関係にあり、中国とロシアに挟まれた小国のモンゴルが、この時代に中国大陸をほぼ征服していたのは、大変な脅威だったことだろう。

そのモンゴルの使節団からの要求を、時宗は黙殺したり、斬首刑を命じたりしたわけである。

続きは、明日である。





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