現代版・徒然草【33】(第112段後半・儀式)

人生の節目には、儀式がある。

堅苦しいことが好きじゃないと言っている人が、成人式やら結婚式やら、子どもの七五三を真面目にやっている。

昨日の前半の原文では、赴任がテーマだったが、それだって送別会や歓迎会がある。

結局は、私たちは、人間である以上、儀式から目を背けられないのである。

では、そのことを踏まえた上で、前半に続く後半の原文を読んでみよう。

①人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。
②世俗の黙(もだ)し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇(いとま)もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空(むな)しく暮れなん。
③日暮れ、塗(みち)遠し。
④吾が生(しょう)既に蹉蛇(さだ)たり。
⑤諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。
⑥信をも守らじ。
⑦礼儀をも思はじ。
⑧この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。
⑨毀(そし)るとも苦しまじ。
⑩誉(ほ)むとも聞き入れじ。

以上である。

②と⑧以外は、短い文である。

①の文は、先ほども述べたとおり、儀式はどれも避けて通れないと言っている。

②では、無視できない(=黙し難き)世の中のしきたりに、否が応でも従うと、そうする中でも、いろいろと願望もあり、心理的プレッシャーもあり、自分の人生は、そういった細かい節目の雑事に時間を取られて、虚しく終わってしまうと言っている。

③と④は、中国の古典『白居易少伝』からの引用である。(人生の)たそがれが到来しても、まだ道は遠い。私の人生は、すでにつまずいて前に進めない(=蹉跎たり)。

⑤⑥⑦では、「人間関係のしがらみを捨てるべきだ。信用など守らない。礼儀も考えない。」と言っている。

乱暴な言い方かもしれないが、このあたりの部分は、人間不信の経験がある方は、心に響くのではないだろうか。

そして、⑧⑨⑩では、「この気持ちを理解できない人は、狂っているとでも言え。正気ではないとか、人情もないとか、いくらでも言え。そんなそしり(=誹謗中傷)を受けても、苦しくない。逆に、ほめられても聞き入れない。」と言って締めくくっている。

さて、あなたは、この段で、兼好法師が言いたいことが理解できただろうか。


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