【続編】歴史をたどるー小国の宿命(70)

今では考えられないことかもしれないが、1772年4月に発生した「明和の大火」(めいわのたいか)は、まさに大火事そのものであった。

火元が目黒区のあたり(=大円寺)だったのに、南西の風にあおられて神田明神や日本橋にまで延焼し、江戸の市中が火の海になった。

死者は1万5000人というから、どれだけひどい火事だったかがお分かりだろう。消防車が何台も来て、一斉にホースで消火する時代ではない。当時の人々にとって、火災を鎮めるのは大変な労力を要したのである。

田沼意次は、その明和の大火が発生した年に、10代将軍の家治の側用人から老中に正式に昇格した。

このとき、家治は35才、田沼意次は53才であった。

田沼意次は、ご存じの人もいると思うが、「賄賂にまみれた政治家」という悪評がどちらかといえば多い。

事実、大名や旗本の中には、田沼意次のことをよく思っていない人が多かった。

しかし、新井白石が荻原重秀の財政政策を批判し、吉宗が新井白石の政策を否定したように、いつの時代においても、経済政策は叩かれたり支持されたりするものである。

田沼意次が賄賂をもらうということは、裏を返せば、贈り手には支持されているということなのである。

田沼の政策は、商売人から支持された。

それまでは、幕府の税収は、百姓からの年貢の取り立てで賄われていた。

しかし、田沼の時代に「天明の大飢饉」が起きたように、気候条件に左右される年貢の増税には限界があった。米が不作であれば、一番苦しむのは百姓である。

ちょうど百姓一揆も頻発していたことから、田沼意次は、米の代替となるサツマイモの栽培の奨励など商品作物を増やし、また、それを流通させるために商人たちに独占販売権を与え、いわゆる営業税として、運上金や冥加金を徴収した。

もちろん私利私欲を肥やしていたわけではなく、その収益を鉱山や水田の開発資金に充て、経済を回していったのである。

ところが、天明の大飢饉でさらに苦境に陥った百姓たちの幕政に対する不満が高まり、有力者だけが潤っている田沼意次の政治は、非難の的になってしまったのである。

天明の大飢饉は、1782年から7年間に及ぶものであり、多くの人が死んでいく中で、10代将軍の家治も1786年に亡くなった。

田沼意次も、自身の政策を否定されて失脚に追い込まれ、家治の死の2年後に70才で亡くなった。

次回は、8月14日に再開する。第11代将軍の家斉の登場である。









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