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「峠 最後のサムライ」司馬遼太郎の原作を、こういう雰囲気で撮られる映画もこれが最後ではないかと思ったりした

私が河井継之助という名前を知ったのは、NHK大河ドラマ「花神」の中でだった。その時の役者は高橋英樹。ガトリング砲という武器を引っ提げて、長岡藩を日本のスイスにしようとした男というのが、すごく印象的だった。結果的には、長岡藩は、戦争後、いろいろ苦難を抱えたようで、河井自身はこの映画にあるように、最後まで侍でいたかったというのを通して死んでいったのだろうが、周囲には大きな迷惑な人と思っていた人も少なくないようだ。そういう意味で、いわゆる偉人という括りで語られる人物ではない気が私にはする。ただ、司馬遼太郎は、彼に興味を持ち、この小説を書き、昭和の政治家には、この本を愛読書としてあげる人も多かったように覚えている。私も「花神」が終わった後、司馬遼太郎の幕末ものは読み漁り、この小説も面白く読んだ覚えがある。そして、その中で、彼が幕末の時代の中で、一人変わった思想に中にいたことは、とても興味深いとは思った。

その小説の初めての映画化。ある意味、意外ではあるが、題材としては長岡藩という小さな藩をどうするかという地味な話なので、なかなかダイナミックな場面もないということで映画化までは至らなかったのだろう。派手なシーンはガトリング砲が吠えるとこくらいですものね。でも、この映画はそれさえも、そんなに前に出して描いてはいない。ただ、ガトリング砲の弾を込める場面は初めて見て、この武器がけして無敵でない感じを理解した。そして、主役の河井は長岡藩を守ろうとして守れず、無理な戦争の中で、自分が侍として恥とならないように朽ちるまでの心模様を描こうとした2時間。だから、サブタイトルに「最後のサムライ」とつけて、テーマ性を出したかったのだろう。

監督は、黒澤組の助監督という肩書きの小泉堯史。彼の演出は決して黒澤のようなエネルギッシュなものを求めているものではないが、そう語られることは一つの誇りなのだろうか?今の時代になったら、残党という肩書きの方が合っているのかもしれない。ということで、この映画、フィルムで撮られたらしい。観終わった後にそれを知ったのだが、映画全体が、昭和の頃の映画の空気感だなとは思った。もちろん、編集段階でデジタル処理は行われているのだろうが、癖のない、演出力が万人に受け入れられる映画だという印象。

その分かどうかわからないが、役者の演技が主役の役所広司をはじめとてもそつなく映像に刻み込まれている感じの濃厚な味わいにはとても良い印象を持った。その時代を人物像で表すということは、特にこの時代においては難しい気がする。だが、助演の松たか子、永山絢斗、芳根京子たちの印象度の高さを見ると、それに成功していると言っていいだろう。仲代達矢や香川京子が出ていて、そこが妙に浮いたものになっていないところも、この映画の空気感の心地よいところだったりする。調べると、今年、仲代さんは90、香川さんは91になる。お二人とも、黒澤監督より、長く生きて、日本映画の現役でいることは、本当にすごいこと。(この映画はパンデミック前に撮られたものだろうから、その年齢の演技ではないが…。)そして、この人たちも、朽ちるまで役者なのだなと思ったりした。

昨今のデジタルの映画のリズムに慣れてきたものには、少しゆったりとしている感じもしたが、こういう佇まいの映画も、もうそろそろ作られなくなるのかなと思うと、なんかこの映画がすごく愛おしいフィルムに思えてきた(フィルムではないけどね)。それは、昨年公開された「燃えよ剣」などと比べるとよくわかるところだと思う。

映画を見て、また原作を開いてみたくなった。同じように、この映画から、司馬遼太郎に興味を持つものがいるなら、それはそれで、嬉しいし、この映画化の意味はある気がしたりもした。


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