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MATCHA青木さんと、ヴィパッサナー瞑想を振り返る(長谷川リョー)【#5:「こんなイベントに参加してきました」】

先月のテーマは「パラレル親方イベントの振り返り」でした。

今月はちょっと関連して、「こんなイベント参加してきました」にします。
メンバーそれぞれが興味を持ったイベントに自由に参加、その模様や感想を、今月のチームnoteにまとめてもらうことにしました。

僕はといえば先月、MATCHAの代表・青木優さんと共同で開催した、「青木優×長谷川リョー「あの体験があるから、今がある」ヴィパッサナー瞑想を語る」の振り返りにします。

イベントの概要は下記。

ヴィパッサナー瞑想は、インドの最も古い瞑想法のひとつ。「ものごとをありのままに見る」という意味があります。瞑想の期間中は一切のコミュニケーションが禁止され、言葉を発することも、目を合わせることも、ジェスチャーで意思を伝えることもできません。読み書きや娯楽も禁止され、社会から完全に隔絶された空間で、1日10時間の瞑想をします。

旅に出る前、長谷川は「ノイズをシャットオフして、ただ自分と、これからのことを考えてみたかった」、青木は「コミュニケーションも娯楽も一切無い、社会から隔絶された空間で自己を見つめ、心を無にするヴィバッサナを知った瞬間にやってみたいと思った」と語りました。

目に見えない「情報」という鎖を自ら断ち切り、ひたすら圧倒的な"孤絶"の中に潜り込む10日間を経て、長谷川は編集者として、青木は経営者として独立しています。

語られることのなかった孤独の中でふたりは何を見つけ、考え、現在の道を選んだのか。人生100年時代において、人生に「必要なもの」と「不必要なもの」を識別する"捨てる旅"の全貌を語り合うイベントを開催します。

DAY0:瞑想・思索・共有

当日のイベントには、約15名の皆さん(経験者/未経験者)にお集まりいただき、その効用や意味について、自由にディスカッションを行いました。

当日のイベントでも、僕がインドのブッダガヤで瞑想していたときを、写真なども見せながら振り返りました。

ここでは、瞑想の様子をまとめたnote連載から要旨を抜粋しながら、写真を交えて振り返れればと思います。

就職もせずに、大学を卒業した僕は、迷うことなくインドへ。その目的は、釈迦が悟りを開いた土地、ブッダガヤでヴィパッサナー瞑想を行うこと。

出発時のブログ(【インド瞑想記①】思索の旅へ―Cut and Roll Out)では、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』から、こんな言葉を引用してますね。

「自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。自分の肉体という限定された檻を出て、鎖から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる。論理に自然な生命を与える。それが思考における自由の中核にあるものです」

瞑想記②ではヴィパッサナーを行う施設へ汽車を乗り継いで向かう、道中の様子が綴られています。思えば、移動中も思索にふけったり、たくさん本を読んだりしていました。

青春とは、やがて来るべき「船出」に向けての準備がととのえられる「謎の空白時代」なのだ。そこにおいて最も大切なのは、何ものかを「求めようとする意志」である。それを欠く者は、「謎の空白時代」を無気力と怠惰のうちにすごし、その当然の帰結として「船出」の日も訪れてこない。彼を待っているのは、状況に流されていくだけの人生である。
(立花隆の『青春漂流』)

リクシャーを乗り継いで、ようやく施設へ到着。
「この暑さで、10日間乗り切るのは無理ゲー」ーー。
そう直感した僕は、迷わず瞑想開始の1日前に、街で坊主にしてもらったのでした。

DAY1-3:茫漠・沈思・堅牢

いよいよ始まった、ヴィパッサナー瞑想。

完全な静寂のなかで、自らの人生を省みて余生について沈思黙考できる環境はおそらく、自分から積極的に身を投げ出して行かなければ得られないであろう確信があった。

社会のレール、なんとなくの空気感に右顧左眄し、通説通り就職するよりも、長い人生の中で一度、立ち止まる時間が欲しかった。

漠然とこんなことを感じていたようです。
具体的にヴィパッサナー瞑想はどう進行していくのか。下記がそのタイムテーブル。

瞑想をはじめて3日間が過ぎた。まだ1週間残っている。

「自分の中に誰も入り込めない堅牢な砦を打ち立てる」これを目標にする。当然、一週間で砦なんて出来ないかもしれない。まして一生かかっても。

食事の様子や、散漫な思考群を苦慮しながら押し込めようとしている様子が、書き殴られていますね。

DAY4-6:階段・曙光・稲妻

ソローの『ウォールデン』を引きながら、朝を気持ちよく迎えられるようになったときの感慨が記されているのが、3-4日目あたりから。

一日一日が、これまでけがしてきた時間よりも早くて、神聖で、曙光に満たされた時間を含んでることを信じない人間は、結局、人生に絶望しているのであり、暗さをつのらせてゆく坂道を転落しているのである。感覚的な生活がいったん中断されたあと、人間の魂、いや、むしろ魂の諸器官は、毎朝活力を取り戻し、そのひとの「霊性」は、ふたたび気高い生活を営もうと努力するのである。

分水嶺となった3日目を越え 、谷のような4日目を越え、5日目。
稲妻の轟音で目を覚ましたのでした。

プラトンの「最初で最高の勝利とは、自分自身を征服することである。自分に征服されることは、最も恥ずかしく、卑しむべきことである」が頭で反響しながら、いくつもの断想が通過していきながら、淡々と瞑想は続いていく。

DAY7-9:修養・薄陽・虚心

苦痛は消え去り、快感へ変わっていく。陰鬱だった空模様が、晴れ渡っていくかのように。目覚め、薄陽に包まれた外へ一歩足を踏み出し。吸い込む空気の一吸い目。ちょっとした恍惚感。
そんなとき自然と思い出されるのは、ブッダ自身の言葉。

新しい朝が来るたび、私たちは生まれ変わる。今日なにをするかが一番大切なのだ(Each morning we are born again. What we do today is what matters most. )

毎朝、欠かすことなく飲む温かく甘いチャイ。

ゆっくりとすすりながら、その甘露さと円やかで静謐な窓の外の景色に身が包まれていく。

今日も虚心坦懐に瞑想に臨む、心がそちらへ向かっていく。

苦しくて仕方なかった1―3日目を越え、6日目を至極ポジティブな気持ちで迎えることができたことが、嬉しくてたまらなかった。

残りの4日間も孜々と瞑想に励みつつ、思い思いに広がっていく頭の中の宇宙(universe in the head)を覗き込むのが愉しくて仕方なかった。

インストラクターも"In thought, one can never observe it" (考えていては、観察することはできない)と言っていた。

諸念から離れ、ただ自分の内部のセンセーションを眺め、観察する。

1週間を越えた。残すところあと3日。
1週間ではなく、10日間というのがこのヴィパッサナーの肝なのかもしれない。

瞑想を進めていく中で二つの"意識"があることに気がついた。

一つは表層にある「日常的意識」、もうひとつは深層にある「潜在的意識」。この後者は時間をかけて、自分と真正面から対話しない限り、表出してこない。

DAY10-:沈黙・原理・歴史

ジョージ・オーウェルはこう言った。
小さなルールを守っていれば、大きなルールを破ることができる

そして、一日の終りにインストラクターは必ずこう言う。

Work diligently and diligently, patiently, persistently, you are bound to be successful, bound to be successful. (懸命に一生懸命に、忍耐強く、根気強く、必ず成功することでしょう)

いよいよ瞑想も実質的な最終日を迎える。(今日のam10に沈黙"noble silence"が解かれることとなる)

終わった瞬間、参加者同士で抱き合っている人もいる。

10日間、ずっと一緒にいたのに一言も言葉を交わしたことのなかった人々、「同じ釜の飯」ならぬ同じセンターで瞑想をしていた同志ということですぐに打ち解ける。

共に乗り越えた。

人生は一度きりであり、われわれの決定のどれがよくどれが悪いかを決められない理由は、ある状況でわれわれがたった一度の決定しかできない点にある。

われわれは個人的決定について比較するための第二、第三の、あるいは第四の人生を与えられていない。

この点において歴史は個人の人生に似通っている

そんな言葉を思い起こしながら、インドから日本への帰途に着いたのであった。適度にサマっていくはずが、かなり膨大になったのでこの辺で。
もし気になる方がいれば、個別のブログを読んでみてください。

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次回更新は2月14日(水)、担当はオバラミツフミです。ユニークなイベントに参加しているようなので、お楽しみに!

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ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。