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運命は秒速で、幾重にも枝分かれし続けている

『あなたの人生の科学』をカフェで読みふけっていたら、涙が零れそうになった。

本書では、人間の誕生から死までを、架空の主人公の男女の一生を辿っていく。その過程で、最新の脳科学や発達心理学の知見を手がかりに、意識ではなく無意識がいかに人間の意思決定や生命活動に影響を与えているかが明らかにしていくのだ。筆者は21世紀版の『エミール』を意識して執筆したと明言。

まだ読み進めている最中なので、このnoteは書評の類ではない。
あくまでも読書中に、自分自身の感情が揺さぶられたその機微を、一度立ち止まって言語化したいと思った。

「忘れていくこと」が悲しい

僕は人生の唯一にして、最大の原理原則は誰もが一回性の人生を生きていることにあると確信している。それは先日、学生に向けてしゃべったインタビューでもうるさいくらいに語った通り。

みんな1回目の人生を生きているから、いろんなことが分からない。一つを知ると、一つを知らなかったことに気づく。分かったと思ったことも、時間軸や空間の位相をズラすと、途端に分からなくなる。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」年に数回、ウィトゲンシュタイン先生の言葉を考える。

それでも、“1回目の檻”という所与条件を突破し、自分ならではのエゴイズムを確立する人だけが、人生の羅針盤を握り切れるのかもしれない。とにかく、分からない。その危うい舵取りが、行く末を占ってたりするから、人生は楽しいし、儚いんだろう。

その瞬間に感じ、想い、考えている気持ちは嘘ではない。それでも次の瞬間、次の日、次の人生おいて、「あれ、なんだったのさ」と、問い詰められると何も言えなくなる。意識はきっと寝ても覚めても連続しているはずなのに、細胞が更新されるように、ふとした瞬間に雲散していることがある
人間はそれくらいに適当で、曖昧な、存在なのだろう。

「それが歳をとることだし、人生を歩むことだよ」と言われれば何も言い返せない。けど、「忘れる」ことがとてもとても悲しい。いまこの瞬間にだけしか覚えられない感情はどこまでもリアルなのに、明日には、一年後には溶けてしまう。強く記憶の釘を打ったとしても、忘れてしまう。それが悲しい。

生きるから死ぬし、死ぬから生きる。その途中過程の相対的時間密度は、各々の裁量に任されてるからこそ、何事かにオールインするタイミングと覚悟にレバレッジが効く。生の本質に関係性を置くか、一回性に紐づく自己決定に重きを設定するかで、チョイスは変わる。この微妙な選択の機微が、未来のあれこれを変える

生きていく上で、当たり前なことなどきっと一つもない。回顧する思い出は、常にフレッシュで、眩しい。いつまでも付きまとう過去は、たぶんずっと、忘れられない記憶であり続ける。記憶の集積が成長分として、意思決定の先端を司ることだってあるはず。そうして一個ずつ歳をとり、悟りを深めて、老っていく。

見えるものしか見えないし、聞こえるものしか聞こえない

ある年齢になると、時間の有限性に気づき、だれと定期的に定常的に時間を費やしたいかが少しづつ見えてくる。それは必ずしも恋人や親友といった次元でなく。共にする時間が心地よく刺激に満ちて、相互に発見があり、刺激し合えるような。精神的に深く繋がっていたいと思える人に出会えることは幸福だ

他者と他者が出会う、人間関係に求められるのは、お互いの余白を許容し合うこと。すなわち、どちらかが妥協をして、人間関係は成り立つ。だから、今ある関係性の全ては、奇跡の連続ともいえる

人間は究極分かり合えないとして、どこまで”努力として”分かり合おうとするのか。どこまでいっても程度問題でしかない”努力”などという相対値に、どこまで自分の主観的人生の配分をベットできるだろうか。その絶対的閾値によって、運命のさじ加減は変わるのか。分からないから美しい。

悲しいけれど、人は変わる。自分も変わるように。1秒たりとも、同じ気持ちを抱き続けられない。人生の不可逆性を嘆くんじゃなくて、美しいと思うようにしよう。「伝えること」がこの制約を乗り切れなくても、絶望しないで前向こう。

他者は自己の映し鏡でしかなく、実存性のレベルで、世界には己しかいないと考えるのであれば。他者に期待や信頼を預けるのではなく、それが裏切られたときにだけ、自己との真の対話が始まるのかもしれない。所与は、喪失と同時に発現するのだから。絶望の先にしか、確信的な希望はない。

基本的に人は自分にしか興味がない。けど、他人はいつだって鏡で、感情や悦びは関係性のなかだけに映し出される。なのに、どうして、それを見失ってしまうんだろう。幸福は誰かと分かち合ったときにだけ、感じられるものなのに。

愛と意思決定。あるいは後戻りできない瞬間(point of no return)

人生は一度きりだからこそ、ラ・ラ・ランド的決定的分岐点がいくつも存在する。来年のいま振り返ったとき、「エモい」話として美談や甘酸っぱい話で回収して悦に浸るのか、どれだけダサかろうが、運命を主体的に手繰り寄せようともがくのか。これもやはり、人生一度きりだから、正解を断定できない。

人生は取り返しがつかない。恋愛は、そういうことの極致を最も分かりやすい形で教えてくれている気がする。たとえば、できちゃった婚とか。起こってしまった事象の受容の仕方は、ある意味でその後の生き方を規定する。覚悟とノリが、人生を左右する。身を任すことと意思決定の狭間で。

キーワードはきっと「盲目性」。非合理の先にしか合理がないとすれば、ロジックを抜きにした、ただ「コレが好きなんだ」とか「この人が好きなんだ」といった、意味は分からないけど、自分は確信してる、微かな絶対性にしか意味は生成せず、それこそが信仰であり愛なのかもなとか。

だれかを失ったときほど、自分を顧みる機会はなく。

気づいたとき、愛はもうそこにはない。

総量が限られているかもしれない愛を、余すことなく十全に配り切ろう

人生はあっけない。あっけなさ、の、始原と終焉に対し、先取的に予見した行動を取れる人なぞどれほどいるのか。時間軸を飴のように引き伸ばして、この瞬間に意思決定を取れる人なんていないのではないか。微かな希望と絶望に不合理的にベットできる状況、だけが人生のその後を彫刻したり、しなかったりするのだろう。

「どうせ死ぬんだよなあ」と揺るぎなく、待ち受ける事象をポジティブに受け取るか、ネガティブに受け取るかで。生き方や考え方、対人関係のコミュニケーション、クリエイションの発露がガラリと変わる。考えることを放棄した人と、向き合い切った末に、あがく人で、本当にアウトプットの全てが違う。

「ロング・グッドバイ」に込められた意味をどこまでも広く、どこまでも深く、想いを寄せながら受容できるかどうか。その更新と積み重ねで、人生の轍は折り重なり、次のエモを生むのかもなあ。だから、どこまでも「ありがとう」と「さようなら」を越えるような、淡く尊い一言は存立し得ないのだろう。

僕と同じ年齢の28歳で逝ってしまったAviciiは歌う。

父はこう言ってた、いつかはこの世を去るときがくる
だから生きて良かったと思えるような人生を送れ、と

(He said, one day you'll leave this world behind.
So live a life you will remember.)

善良に、安寧に、生きる。家族を幸せにする。そのついでに、良い仕事ができれば素晴らしい。それ以上に尊い人生はあるものだろうか。

何歳になっても、この日を振り返るんだろうな。「ああ、子供だったなあ」と。


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