自殺への道

人が自殺を完遂する際、それに至るルートは無数にある。そのうちの一つは「本気で死ぬつもりじゃなく、死にたいほど辛いという事を誰かに理解してほしくて、感じ取ってほしくて自殺未遂を繰り返すうちに、うっかり達成してしまう」というものだ。

一時期ある若者からの相談に毎晩乗ってた。

本人や本人の身内友人知人がこれを読む事はないだろうし、これはあくまで「本人やその身内に向けたメッセージ」ではなく、「似た状況にある人、あるいはその周囲に寄り添う人々」に向けた一つの教訓。

「死にたい」が口癖だった。

単身上京していたけれど、数カ月後に親元に強制送還される事がほぼ確定していて、ほとんどノイローゼ状態で、「親元に戻されたら生きていけない。親元に戻されるくらいならいっそその前に自分で決着をつけてしまったほうが」というくらい精神的に追い詰められてた。

毎晩相談に乗って、病院にも付き添った。

本人の口から「具体的な状況と適切な処置」について医師に説明するのが難しそうだったから通院の際に同伴し、僕から医師に具体的な情報をお伝えし、本人と「こういう認識で間違いないか」という意見の擦り合せをし、医師の判断で「家庭への適応障害と複雑性PTSD、発達障害とそれらに伴う鬱状態」の診断を頂いて、「今の状態で実家に無理やり強制送還すれば、家庭への適応障害が顕著な為、余計に病状が悪化する懸念…最悪の場合死に至る危険がある。なので親元と別の場所で療養に専念することが好ましい」という文面を先生に書いていただいて、なおかつ、その先生自身も非常に頼りになる方で「親も何かしらの発達障害があると思われる。もし君等だけで対処出来無さそうなら、俺の方から親御さんに電話して直接説明するからいつでも言ってくれ」と別れ際に言ってくれるくらい頼れる先生。

実際それから劇的にその子の状況が改善された。

それまでほとんど全くその子に対し無理解かつ問題意識の軽薄だった両親は「医者からの通告」を受けて露骨に態度を改め、その子が親元から離れて暮らすことを承諾し、経済的に支援するという流れに落ち着いた。

本人から定期的に任意の報告をもらっていて、状況自体はかなりいい方向に動いていると話してくれて、実際そうなんだろうと感じた。

ただ懸念は拭えなかった。
そういう時ほど、人は過ちを犯しやすい。

アルコール依存、ギャンブル依存、薬物依存などは必ずしも「精神的に追い詰められた時」だけが行動のトリガーではない。

「ずっと長年追い詰められた状況にいたけれど、そこから突然解放される瞬間」というのも非常に危険。

アルコール依存の人が快気祝いに酒を飲む、ギャンブル依存の人が幾らかの金を得て安堵して、景気づけに一発ギャンブルをしてしまうというのはよくある事だ。

危険を感じていたから僕なりに幾つかのガードレールを用意はしていたけれど、最終的には本人の意思を尊重する以外出来ないから、その時はもうただ見守る以外なかった。

そして自殺未遂の報告。

数週間の空白を経て、たしか経過を窺うために僕の方から連絡したんだったと思うけれど、自殺未遂しました、救急搬送され、先日まで入院してましたという返答。

これも正直想定の範囲だった。

極度のストレス環境から抜け出すことに成功し、気持ちが大きくなって、以前こっぴどいフラれ方をした相手にまたうっかり連絡をしてしまい、その相手にまた当然の如く酷い裏切りを受けて、絶望して自殺未遂。

「この場所で何時間も自殺を考えてた」と、高い建物の屋上の端に座って足を空中にプラプラさせてる写真を送ってきたりした。

「未遂をして入院した途端、今まで一度も自分のことを気にも留めない様子だった家族や周囲の人間が優しくしてくれるようになった」

非常に危険な兆候だと感じた。

精神医学や心理学の世界では最早一つの常識となっている、自殺未遂を繰り返すメカニズム。

「自殺未遂すれば、周囲が優しくしてくれる」

そういう『歪んだ成功体験』を脳が学習してしまい、辛くなるたびに、孤独になるたびに、優しさを乞う為に、何度も自殺未遂を繰り返してしまう人というのが少なからずいる。

そして「本気で死ぬつもりはなかった。もうあんなに痛くて苦しい思いは二度としたくないから絶対未遂はしない」と口で言いつつ繰り返す。

そしてどこかでうっかり間違って、達成してしまう。

自殺を。

これについてはあえて「自死」ではなく「自殺」と表記する。

ぼくは20代の頃から人の相談に乗ることが多かったから、そういう事例を過去に幾つも見てきた。

だから通話越しのその子の口調から否応なしに感じ取ってしまう。

危険な兆候だ、と。

「自殺を仄めかせば優しくしてもらえる」

家族も友人も心から頼れず、今まで出会ってきた中で、唯一尊敬できそうな人間といえば僕だけだという。

そしてまた頻繁に相談に乗ってた頃同様に、泣きそうな声でぼくに同情を乞う。

危険な兆候。

故に、精神医学・心理学のセオリーに従い「エモーショナルに寄り添うのではなく、淡々と状況や心理を分析し伝えること」に専念した。

僕自身共感性過多のエンパス故「同情してほしそうな人に、同情的な態度を示す事」は爪を切るより簡単。

だけど安直にそれを選んではいけない場面というのもある。

「自殺未遂とかすれば、また人に優しくしてもらえる」

その感覚に確信を与えてしまってはいけない。

今までそれなりの数の若者の相談に乗ってきて、最悪のケースというのを何度も見てきたから、同じ過ちを繰り返したくないという一心で心理学や精神医学について最低限学んできたし、何より経験則から「こういう経過を辿れば、自ずとこういう結末に至る」という原理が理解ってしまう。

けれどこれは「経験則や心理学などの知識」から導き出されたもので、また経験の乏しい若者からすれば「あんなに親身に寄り添ってくれた人が、急に突然冷たくなった」ように映りもするんだろう。

実際には突き放すような冷たい態度を全くしていなくても、「今までなら、泣きたい時に好きなだけ泣かさせてくれた。甘えさせてくれた。慰めてくれた。なのに自殺未遂直後、甘えようとした途端にやんわり遮られた。」というだけで彼ら彼女らの目には「突然冷たくなった」ように映る。

「唯一信頼されている人間」という立場だからこそ、そこで「安易な同調と同情」は示すことが出来ない。

『あの子にとって最も信頼できる僕』がそれをしてしまえば、あの子は慕う相手の同情や関心を引き出す為に自殺未遂を繰り返すようになり、いずれうっかり何かの拍子に成し遂げてしまう、そういう未来がほとんど確定的と言っていいほど明確に視えてしまっていたから。

僕以外に信頼できる存在、尊敬できる存在がいくらでもいるなら話はまた違ってくる。

だからその辺もやんわり確認した。毎晩相談を受けていた段階で概ね察してたけれど、そもそも頼れる人間が身近にいるなら僕を頼ってこないし、信頼できる人間がいるなら僕以外に苦悩を打ち明ける機会だって折々あったろう。

ぼくがあの場面で、あの子が泣きそうな声で同情を乞う態度を示した時、それまで同様優しく受け止めて慰める態度をすれば、それは極めて危険な種類の依存形成に繋がるだろう事をぼくは経験的に知っている。

けれど若者達はそのメカニズムを知らないから「最も信頼できる、尊敬できる人間に突き放された」という風にそのまま受け取ってしまう。

「家族にも友人にも誰にも相談できないこと」を抱えている若者たちにとって、「誰にも話せなかったことを汲み取ってくれて優しくしてくれる相手」は往々にして依存対象になりやすい。

僕はあくまで彼ら彼女らの自立と安定に極力健全な形で貢献したいと考えているし、なおかつ僕のような人間は常に複数人の悩める若者と交流しているため、特定の誰かの依存対象になってしまうと必ず「取りこぼし」が発生し、どこかしらで「あんなに優しくしてくれたのに、最近は冷たくなった。もうこの人にとって自分はどうでもいい存在なのだ」と考えるようになり、気を引くためにまた自殺未遂…という流れに至ることはほとんど確定的と言える。

故に自殺未遂直後の、他の誰より自分を信頼してると言ってくれる相手の、優しく甘やかして欲しそうな態度に応えることだけは出来ない。

結果的に「自分の為に具体的に動いてくれた事には感謝してるけど、冷静な分析とか助言とかいらないです。自殺未遂直後の人間の心情に寄り添えないような人をもう信頼はできない」と告げてその子は去っていった。

本当に難しい。

精神医学的に「依存先が一つだとそれは依存。依存先が複数あり、柱の一つが折れても建物全体が倒壊しない状態を維持できるようになったならそれがつまり精神的な自立」という考え方がある。

毎晩相談に乗っていた段階で「僕以外の頼れる存在」を作れるよう幾らかの働きかけはしていたけれど、結局のところ僕が引っ張ってきた「信頼できる別の大人」を信頼するかしないかは彼ら彼女ら自身の判断を尊重する以外ないし、いずれ僕以外の「信頼できる大人」に出会える事を祈る他ない。

「自殺未遂をすれば周囲から優しくしてもらえる」という歪んだ認知の形成を阻止するのは本当に難しい。

ただ一定の知性がある人ならば、自分や物事を冷静に俯瞰できるようになった時理解できるだろう。

「自殺未遂したら、普段ずっと冷淡だった人達が急に優しくなった」

「でもずっと親身に相談に乗ってくれてた人は急に冷たくなった」

それが一体なぜなのか。

自殺未遂すれば簡単に手に入る場当たりの優しさと、未遂しようがしまいが常に「その相手に一体何が今必要なのか」を思考し、情動に流されず行動する人間。

別に「自殺未遂をした子に優しくする、普段冷淡な人達より、僕ら精神医学齧ってる人間の方が本当は優しいんだ」みたいな話ではない。

そもそも僕が若者たちの相談に乗るのも別に善意や優しさを掲げてやっているわけじゃない。

僕自身、まだ若く、助けが必要な時期に何の助けも得られなかったから、誰の助けも得られず育つと、非常に歪んだ逞しさが必然形成されてしまうから、そういうどうしようもなさを経験的に知っているから、大人として提供できる程度の事は提供する、という程度の話。

僕のようなスタンスで動く大人というのは、割合としては決して多くはないけれど、数でいえば激レアというほど少ないわけでもない。

そして人をどれだけ信頼・尊敬をできるかは、もちろん相手の人間性も重要だけれど、自分自身の「他者の受け止め方」によって全然違ってくるものだから、上述の若者も社交性は高い方だったから、いずれ社会経験を積み、視野が広がるにつれ、僕以外にも信頼・尊敬できる人間がいることを知る事になると思う。

自分の行動や選択がベストだったとはもちろん全く考えていない。

そもそも僕は精神医学の専門家でもカウンセリングのプロでもないのだ。

世の中には醜悪な欲望を動機に「どしたん?話きこか?おじさん」をしてる輩が本当にうんざりするほど溢れ返ってるから、そういう真正のクズみたいな大人が多すぎるせいで大人不信に陥ってしまっている若者も非常に多いから、若者を自身の欲望の捌け口にせず、ただ必要なケアだけを粛々と提供する大人の一例としてケースモデルを演じてるだけ。

ただ「自殺未遂直後の人間に過度に肩入れして優しくする事」は『アルコール依存症の人が欲しがってるから酒を提供すること』に等しく危険であるという事を知らない人が多いらしいから、ある種の注意喚起としてここに記しておくだけ。

未遂直後の若者に優しくすりゃそりゃ簡単に好感度稼げるだろうし、場合によっては美味しい汁も吸えるかもしれないけれど、それは、その子の人生を破壊して搾取するようなものだ。

嫌われ疎まれる結果になったとしても、あの子が「尊敬できそうな大人」だと僕に告げた訳だから、心理学・精神医学に倣い、そして沢山の悩める若者の相談に乗ってきた経験則から「自殺未遂をすれば優しくしてもらえる」という認知の形成に貢献するような態度だけは出来ない。

ある意味ではその子にとって「唯一尊敬できそうだった大人」を奪ってしまった形でもあるから、申し訳ないという気持ちはある。

もっと適切な対処もあったんじゃないだろうかと今でもずっと考えている。

だけど「そういう場面」というのは常に綱渡りだし、充分に思考する猶予は与えられず、経験則からの予測と、エモーショナルな挙動を汲みつつアドリブで対処するしかない。

返答が数秒遅れただけで、全く同じ言葉を伝えても、言葉の意味合いが相手の中で変化してしまう。

僕は元来的に共感性の強いタイプだから、昔から多くの人に相談を持ちかけられるし、だからこそ「共感性に突き動かされて同情しちゃいけない場面」というのがある。

「自殺を仄めかせば優しくしてもらえる」

そういう認知の歪み方をしてしまった人が、その後それを矯正していくのは本当に難しい。

多くが矯正しきれず、未遂を繰り返し、そのうちの何割かは人生のどこかでうっかり「死ぬつもりじゃなかったのに」自殺を達成してしまう事になる。

「自殺未遂したら、普段冷たかった人が優しくしてくれるようになった」

「けどずっと親身に相談に乗ってくれてた人は、未遂直後なのになぜか優しくしてくれなかった」

それが一体なぜなのかという部分に、生きていく上で非常に重要なヒントが内包されている。

僕は聖者でも神様でもないから、僕が提供できるのは『救い』じゃなく『可能性』だけ。

その可能性に気付くも気付かないも本人次第だし、その可能性を活かすも潰すも本人次第。

「あの時、もっとこういう風に対処する事も出来たんじゃないだろうか」と今もずっと考え続けてる。

考え続けて、何かしらを発見して、成長していく。

「生きる死ぬの瀬戸際で苦しんでる人間を成長の糧にするだなんて!心のないサイコパスめ!」と憤る当事者もいるだろう。

取りこぼしてきた命の数と重みを理解しているからこそ、情動や無念に翻弄され涙を流すだけの無責任な態度ではなく、人や物事に対し理性と知性で対処する人間でありたいと思う。

「自分の側の事情」を理解してほしくて今これを書いてるわけじゃない。

具体例を添えて「自殺未遂を繰り返す人の心理機序の一つ」を記すことで、当事者や、それを支える人々にとって何かしらのヒントになればいい程度の話。

同時に、上記はあくまで「自殺未遂を繰り返す人のうちの、ごく一部の例」であり、自殺未遂を繰り返す人の全てが上記の心理機序で「繰り返してしまう」わけではないということだけは留意しておいて欲しい。

死にたい理由は人の数だけある。
過ちを繰り返す理由だって千差万別。

類型化してしまう事は危険な事。

ただ類型化を恐れ、判断基準を一切持たない事は類型化以上に危険な事だから、「なぜ自殺未遂をした直後の人に対し、過度に優しくしてはいけないのか」という精神医学における初歩的な情報を記しておいた形。

「未遂を繰り返す人に対し、直情的に同情して過度に優しく寄り添い、当事者に『未遂をすれば優しくしてもらえるという歪んだ認知』を植え付けてしまい、無自覚に自殺をアシストしてしまう親近者」というのは悲しいほどに多く存在するから。

誰かを大切に想うのであればこそ「安直に優しく寄り添う事だけが、必ずしも本当の優しさとは限らない」という事をどうか知っておいて欲しい。

僕の知る限り、自殺未遂を繰り返す若者が立ち直ったケースの多くは「自立」に向かう心理的・物理的ムーブをしてる。当然そうなるような働きかけが周囲からあり、本人自身もそれを快諾であれ渋々であれ受け入れる事で自立に向かっていく。

「支え合って生きる美しさ」を免罪符にして共依存に埋没してしまう人達は、僕の知る限り、残念な末路を辿るケースが多い。

健全な「支え合い」というのは互いに自立した状態で、ライバルのように互いを高め合う関係性である場合が多い。

一人では生きていけないから誰かと支え合う…というスタンスだといずれ必ずどちらかの心が離れ、あるいは背負いきれなくなり再建不可能なレベルで人生が倒壊する。そして散々繰り返してきた未遂が未遂で済まなくなり、「もう自分は死ぬしかない」と思い込んでしまうところまで追い詰められるようになる。そしてその何割かが「心から望んだ自死」ではなく、強迫観念に食い殺される形で自殺を達成してしまう。

それは本当に悲しいことだと思う。

ぼくはそもそも「生存という状態」を全肯定する気もないし、希死念慮をまるごと否定するつもりもない。

なんなら僕自身の中にも希死念慮は常にある。

先天性魚鱗癬、性別違和、どれだけ努力したところで物理的に解消する事が出来ない種類の苦痛が死ぬまで続く。

故にトランスジェンダーの人の多くが語ってくれるように僕自身も「いつか必ず死んで、この望まない肉体から解放される事が、ある種の救いでもある」みたいな感覚ある。

尊厳死についても個人的には肯定派だし、僕自身、大動脈解離や心筋梗塞、脳梗塞を起こしたら救急車はなるべく呼ばないでほしい、その時が本来の僕の死ぬべきタイミングだったのだ(過度に発達した現代医療の恩恵がなければ死ぬのが順当な状況なのだ)と受け入れて欲しいと家族に伝えてある。

死を望むこと、望んでそれを達することを僕は否定しない。

ただ「同情や慰めを最も効率的に乞う道具」の選択肢に自殺未遂が含まれ、結果的に、本人自身も意図しない場面で、ほとんど事故のような形で、未遂のはずが完遂になってしまう、そういう種類の自殺についてはやはり悲しい死に方だと思う。


『自殺未遂すれば優しくしてもらえるという歪んだ観念を極力植え付けない事が肝要である』という考え方、海外の精神医学ではかなり一般化しつつあるけど、日本ではまだまだ浸透していなくて、だから今回自分の見てきた実例を上げ提言した形。


自殺未遂を繰り返してしまう人、そうなりかねない流れの真っ只中にいる人、あるいは精神的に不安定な人が周囲にいるという人達にとって何かしらのヒントになればいいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?