6月6日雑感
今日ツイッターで囀ったものをいくつか拾ってまとめてみる。
人を教えるルール
「〜はダメ」、「〜してはいけない」、などのような否定による命令は動きを止めてしまう。だから「〜しなさい」様の能動態でルールを記述しなさい。そんなことが言われる。
こどもが飛び出そうとしたときに「ダメ!」と叫んだら、そこで固まって車に撥ねられる。だから「下がって!」と言いなさい、みたいな。否定のルールは、それからOKな行動を導くために一手、思考の時間が必要になる。導いた結論が間違っていて問題を悪化させることさえある。
できうるならば、取るべき戦略を迷わず提示できるようになりたい。
生命の選択進化を考えると、特定の状況においてできる限りの実験がなされ、それらのうち間違ったものが淘汰され正しいものだけが残る。科学的な態度も然り。本能に従った行動は「死」に直結するようなマイナスの行動を抑制する禁止ルールに強く反応するようにできているのかもしれない。そして禁止を真っ先に考えるのはごく自然なことなのかもしれない。
受診順序トリアージ、あるいは当たり前に休むこと
働き盛りが、高齢者に占拠された医院の待合室で待たされることは、社会的な損失ではないか。せめて受診時間に制限を設けられないか。そんなツイートを見て。
予防医学という観点で考えると、体力などから考えて重篤化しやすく、そしていざ施す処置も高額化しやすい高齢者や幼児を優先的に診療するのは理に適っていると言える。
将来の支えになる幼児に最優先の診療機会が与えられるべきだということについては論を俟たないだろう。一方で高齢者に対してはどうだろうか。これは、自分が老いることを想像しにくい若い世代ほど冷淡な判断を下すものとおもう。特に顔を知らない高齢者に対しては。
しかし自身の年齢が高齢者と呼ばれるグループに近づくにつれ、冷淡な共同体への帰属意識が薄まるだろうし、それが若年層への恨みに転化するだろうことは想像に難くない。
安心して生産に励むことができる共同体は、生涯を通じて誇りを維持して暮らせる見通しがある社会だろう。
もう一つ。
働き盛り世代が朝の診療時間に駆け込んで診療を受けなければならないのはなぜか。全休を充てて調子を整えられるようになっていないのは、なぜか。
休むことで迷惑がかかる、穴は開けられない、そんな意識が働くのはなぜか。
休んでもなんとかなる、むしろ、調子の悪い者は休んだほうが労働効率が上がる、そう確信できる職場環境づくり、社会づくりがなされることが健全だろう。
わたしが我慢すればこの場が収まる
「わたしが我慢すれば収まる」、そんな無理をしない方がいい。
わたしは我慢していますと伝えよう。無理をしていることは気づかれていない。
伝えなければ報われない努力を、わたしはいつまでも続けることになる。
そういう元ツイートを見て、ああ、僕は無理を重ねているなあ、なんて思った。
実際のところ、言いたいことを言っても、いる。
けれどそれでも、これは言っちゃあダメだというラインがあって、だから言わないよう抑えて我慢していることがある。
「わたし、それはムリです」。
感じたムリすべてを言うのも極端だけれど、抱え込むのもまた極端。ほどほどに、それぞれがうまく伝えられるといいな。
悪意を、人に向けない
人から向けられた悪意は、回数がかさむほどに、人数が多くなるほどに、極端に、心を蝕む。
僕にも自覚できる、そういうねじけてしまった部分が、ある。
とくに自分に向けられているものでなくても、それを想起させる話題が視界をかすめた瞬間、僕は全力でそちらに向き直り、全精力を傾けて自分の傷口をえぐって、あの頃の痛みひとつひとつを思い出しては呪いを吐き出す毒壺に変わる。
これを「囚われる」というのだろう。
まさに僕は囚われている。
殺された大事な自分の部分への恨みを昇華できないままでいる。
あるいは自分で殺した自分の夢に囚われたままでいる。
昔の傷は痛む。
そして失われたものは戻らない。
ただ、僕はまだ生きているんだし、生きている限り未来はある。
だったら、同じ轍を踏まぬよう暗い過去にきっぱり背を向け、新しい可能性に向かって挑戦する一歩を踏み出し続ける生き方を、したい。
よし、
しよう。
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