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エレミヤ書20章7〜13節「主の言葉は骨の髄まで染み透り炎と燃え上がる」

20:07主よ、あなたがわたしを惑わし
わたしは惑わされて
   あなたに捕らえられました。
あなたの勝ちです。
わたしは一日中、笑い者にされ
人が皆、わたしを嘲ります。
20:08わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり
「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。
主の言葉のゆえに、わたしは一日中
恥とそしりを受けねばなりません。
20:09主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
   骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして
   わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。

20:10わたしには聞こえています
多くの人の非難が。
「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。
「共に彼を弾劾しよう」と。
わたしの味方だった者も皆
わたしがつまずくのを待ち構えている。
「彼は惑わされて
我々は勝つことができる。
彼に復讐してやろう」と。

20:11しかし主は、恐るべき勇士として
わたしと共にいます。
それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき
勝つことを得ず、成功することなく
   甚だしく辱めを受ける。
それは忘れられることのない
   とこしえの恥辱である。
20:12万軍の主よ
正義をもって人のはらわたと心を究め
   見抜かれる方よ。
わたしに見させてください
あなたが彼らに復讐されるのを。
わたしの訴えをあなたに打ち明け
お任せします。

20:13主に向かって歌い、主を賛美せよ。
主は貧しい人の魂を
   悪事を謀る者の手から助け出される。
 

 わたしは小さい頃から動物が好きでした。特にその中でも馬を愛しており、好きな動物ベスト3には必ず入るだろうと思います。鎌倉幕府の武士というものに興味を持ち始めると、弓馬の道という言葉を知りました。中学校に入ったら弓道部か乗馬部に入ろうと目論んでいましたが、乗馬部なんてものがそこら辺の中学校にはあるはずもなく、夢を絶たれたまま大人になってしまいました。

 福島に赴任して、白河の或るバーの女主人から紹介していただいたことによって、初めて乗馬と言うものを経験することができました。中学生の終わり頃からオグリキャップブームが盛り上がり、乗馬よりも競馬に夢中になっていたわたしは、馬に乗るということを競馬のジョッキーのインタビューなどからある程度知識として蓄えていましたが、勿論見るのと乗るのでは大違いで、一人で馬を動かし自分の行きたいところに向かわせるというのがどれほど難しいのかということを知ることになりました。そもそも馬は人を乗せて歩きたいなんて思っていないというのが、最初の発見でした。パドックで他の馬に交じりのんびり草を食べている馬を引き出してきて、鞍を載せ、いざ跨って発進しようとしても、馬は仲間たちの所に戻りたがって一向に言うことを聞こうとしないのです。
 馬の動きを表現するのに「前進気勢」という言葉があります。馬が積極的に自ら前に進んで運動しようとする勢いのことを指します。雨でしばらく表に出さず運動不足の馬などは、表に出ると一目散に駆け出して抑えることが難しくなります。反対に連日外乗りに連れ出されている馬は、牧場でのんびり草をはみながらうとうとするひと時を取り上げられたくないと思っているようです。わたしのような下手な乗り手はなかなか馬を手の内に入れられず、人馬一体などという境地からは程遠いところで悪戦苦闘する羽目になりました。
 前進気勢がある馬は溢れ出さんばかりのエネルギーに満ちていて、こちらが指示を出さなくてもどんどん走り出そうとします。人間だって元気な時は仕事をするのにそれほどの抵抗を感じませんが、逆に疲れているときには、自分の体を動かそうとしても言うことを聞かせるのが難しいことがあります。わたしも躁状態にある時は家でじっとしていることが難しく、あてどもなく車で走り回ったり、SNSに文章を書き散らしたりしましたが、鬱になると起き上がるのも億劫で、居間に寝転がってネットサーフィンばかりしていました。
 躁状態でエネルギーがあり元気だったとしても必ずしも良いことばかりではないのですが、エネルギーがないという状態に比べれば本人の気持ちとしては遥かに快適なものです。後は、神が武豊のように巧みにわたしを操ってくだされば、どんなにか仕事もはかどるだろうにと考えたりもしました。

 本日の聖書の物語はエレミヤの告白と呼ばれる箇所になります。預言者として神の言葉を託されながら、イスラエルの民に受け入れられず苦悩するエレミヤの心情が切々と訴えられています。
 7節でエレミヤは次のように語り始めます。
主よ、あなたがわたしを惑わし
わたしは惑わされて
あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。

20章の1、2節では「主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。」と語られています。エレミヤ書は年代順に並ぶよう編集されていませんから、この出来事がこの告白と同時期の出来事であったのかは不明ですが、彼が預言者として活動を続ける間、こうして迫害を受けたことを知ることができます。主の言葉がエレミヤに臨んだとき彼は「ああ、わが主なる神よわたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」と預言者の務めを拒みました。にもかかわらず彼に臨む主の言葉の強い促しに突き動かされて、彼はイスラエルの民衆の前へと進み出ることになるのです。「わたしは惑わされてあなたに捕らえられました」にはヘブライ語で誘惑されて無理やり犯されてしまったという強いニュアンスがあります。ユダヤ・キリスト教には神の花嫁という考え方がありますが、エレミヤは望まぬ結婚を強いられたと不平をこぼしている訳です。

 牧師としては、「神の言葉を直接聞くことが出来ればもっとみなさんにはっきり福音を語ることができるのに」という思いがありますから、このエレミヤの思いは贅沢な悩みであるように思われるときもあります。しかし、神の裁きと災いを告げ人々に立ち返りすなわち悔い改めを促すというその役目は決して喜ばしい務めではなく、人々から歓迎されないことをよく承知していたエレミヤは年端も行かぬ自分を無理やり預言者として取り立てた主に対して恨み言の1つも言わなければ収まらないほど憤懣が募っていたのでしょう。
 以前の教会でもしばらく預言者を取り上げて集中的に旧約聖書から説教したことがありました。勿論、教団の聖書日課に従っているのですが、たまたま1,2ヶ月旧約聖書の個所が預言者に集中していた期間があったので丁度いい機会だと思ったのです。現代日本の混乱と弱者を虐げる社会の悪に目を向けて、エルサレムの陥落と現代日本の衰退を重ねてメッセージしたのですが、会衆の反応は決して良いものではありませんでした。神の怒りとか裁きというテーマが少なからず会衆の恐怖心を呼び起こしてしまうからです。私自身はノストラダムスの預言を聞きながら育ってきましたので、アンゴルモワの大王が降って来る世界の滅亡に比べれば現代日本の衰頽という程度の悲劇はそれほど恐ろしいと思わないし、破滅が分かっていれば対処のしようもあると考える方なのですが、教会で神様はあなたがたと共にいる、神は愛であると聞きながら育った方たちにとっては、今まさに神の裁きが降ろうとしているのだというメッセージは受け入れ難かったようです。わたしのメッセージには救いがない、慰めが欲しいと言われるようになりました。

 エレミヤが向き合わなければならなかったユダの民も、神の祝福とエルサレムの繁栄を信じていました。エレミヤが預言を開始した頃ユダの国ではヨシヤ王によって改革が進められています。歴代誌下34章1節にはヨシア王の事績が記されているのでこれを読むことができます。
 ヨシヤは八歳で王となり、三十一年間エルサレムで王位にあった。彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道を歩み、右にも左にもそれなかった。その治世の第八年、彼がまだ若かったときに、父祖ダビデの神を求めることを始め、第十二年に聖なる高台、アシェラ像、彫像、鋳物の像を取り除き、ユダとエルサレムを清め始めた。人々は彼の前でバアルの祭壇を壊し、彼はその上にあった香炉台を切り倒した。彼はアシェラ像をはじめ、彫像、鋳物の像を粉々に打ち砕き、これらにいけにえをささげた者たちの墓の上にまき散らした。彼はまた祭司たちの骨をその祭壇の上で焼き、ユダとエルサレムを清めた。
 8歳で即位した彼は長じるに従って、父と祖父が重ねてきた偶像崇拝の罪を改め宗教改革を通じて国を立て直そうと志しました。そしてその治世の第18年に神殿で申命記の原本であると考えられている律法の書が発見されるのです。ヨシヤ王の改革は申命記的改革と呼ばれることがありますが、それはこの改革のさなかに申命記が発見され、律法が再確認されていったからなのです。
 アッシリアの衰退に伴って彼らに服従を強いられていたユダ王国の独立が確立されていったことも追い風になったでしょう。今やユダ王国は神に立ち返り、神の祝福によって独立的な地歩を築き上げたと人々は熱狂していったと思われます。その年、ヨシヤはエルサレムにおいて主の過越祭を祝いますが、聖書では預言者サムエルの時代以来、イスラエルにおいてこのような過越祭が祝われたことはなく、ヨシヤが祭司、レビ人、そこに居合わせたすべてのユダとイスラエルの人々、およびエルサレムの住民と共に祝ったような過越祭を行った者は、イスラエルの歴代の王の中に一人もいなかったと絶賛されています。

 このようなムードの中でエレミヤの預言活動は行われました。偶像崇拝を取り除き神殿を清め、イスラエルの宗教の在るべき姿を取り戻すという気運の中でエレミヤの預言も受け入れられていたのかもしれません。しかし悲劇は突然訪れました。衰退するアッシリアを助けバビロニアの軍隊を討つためパレスチナ地方に進軍してきたエジプト王ネコ2世の軍勢の前にに立ちはだかったヨシア王が敗れ、逆に討ち取られてしまったのです。「あなたたちに敵対するためでなくわたしたちが敵とするバビロニアを打つためにパレスチナを通行することを許可して欲しい」と要求したエジプト軍に、何故ヨシア王が攻撃を仕掛けなければならなかったのか実はよくわかっていません。しかし、ここからユダ王国とダビデ王朝に再び暗雲が立ち込めるのです。
 一度は改革を成し遂げ、独立を取り戻したユダの人々が、エレミヤの裁き、とくにバビロニアが神の僕としてユダに襲い掛かるといういうような破滅の預言を受け入れることは困難であったことでしょう。ヨシヤ王の子ヨヤキム王の時代になると、率直過ぎるエレミヤの預言活動は人々の反感を買うようになります。この時代にはエレミヤのほかに平和を告げる預言者たちが何人もいて、彼らはそちらを受け入れたからです。

 遂には牢獄に繋がれるまでに迫害を受け、命の危機にさらされたエレミヤがそれでも主の言葉を預言し続けたのは何故なのか。9節でエレミヤはこう語っています。
主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。

 主の言葉は自分の骨の中に染み透り、炎のように燃え上がる。押さえつけようとしても到底抑えられるものではないと。

 日本語にも恨み骨髄という故事成語があります。もともとは史記の中の言葉で、正しくは恨み骨髄に徹するといい、恨みで心の奥底まで染まり切ってしまっている様子を表していますが、ヘブル語の骨髄にもやはり心の奥底、人格の中枢というようなニュアンスが含まれていたようです。主の言葉、それも民に対して報復しようという神の怒りがエレミヤの骨の髄まで染み渡っている。心の深いところまで主の言葉に支配されてしまった彼の諦めがここに吐き出されています。主の言葉は彼の心の奥底に達したというにとどまらず、炎のように燃え上がり彼を駆り立てます。真理と言うものは静かなもの、そこに到達したものを冷静沈着にさせるというイメージをわたしたちは持ちますが、ここではそのような印象が一掃されています。心の底から湧き上がってくる力として、彼を突き動かすエネルギーの源として、主の言葉がエレミヤに認識されていることが分かります。

 神の支配という意味でならば、骨髄まで主の言葉に支配されているエレミヤは神の国にいるのだと言うことができるでしょう。しかし、彼は決して嬉しそうではありません。「もう疲れ果てました。あなたに逆らうことは諦めました。わたしの負けです。」そううなだれています。神の国とは、ただわたしたちにとって喜ばしいもの、快適で心地よい天国であるという認識が充分ではないことをエレミヤの告白は物語っているのです。詩篇23編はこう歌います。
 主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。

 主の道は快適な道ではなく、正しい道であるとダビデは歌います。しかし主はわたしたちをただ苦痛の中に置き去りにするわけではありません。わたしたちを鞭打ち、杖で追い立て、力づけてくださいます。励ましてくださいます。わたしたちに敵対し、わたしたちを苦しめる者を前にして、主は食卓を整え、香油を注ぎ、杯を満たします。わたしたちが生きるために必要なものを与え、敵に立ち向かう備えを与えてくださいます。死の陰の谷を進むにあたって怖気づき尻込みするわたしたちの前進気勢を呼び起こし、災いを潜り抜けて谷を通り抜けるための力を与えてくださるのです。

 礼拝の中で朗読される主の言葉、日々聖書を読む中で与えられる主の言葉がわたしたちの骨髄にまで染み渡るのはいつの日でしょうか。主の言葉は炎のように燃え上がってわたしたちを奮い立たせるでしょうか。もしそうであるならばその時、わたしたちはすでに神の国に入っているのです。疫病が流行っていようと、戦火の中であろうと、わたしたちの間に神の国はあるのです。キリストが再臨して統治される千年王国だけが神の国ではありません。苦難のさなかにあっても神の支配がわたしたちをしっかりと捉えているならば、それが救いであり平安だからです。

 下り坂を下り始めたわたしたちの国に新型コロナウィルスの猛威が拍車をかけています。わたしたちの苦難の時はもうしばらく続くかもしれません。でも恐れる必要はありません。主の言葉が炎と燃え上がりわたしたちの力となるからです。信仰を持つ者のうちには神の愛の炎が必ず輝くでしょう。
 

 祈ります。

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