見出し画像

ゲイである大学非常勤講師のキモチ①

 合間に短くパッと書けるなら、講義周辺の思いも書いておきたい。トランスジェンダーには対置概念として「シスジェンダー」がある。出生時の身体的性別と生活上実感している性別(性自認)が一致する、私のような者がシスジェンダーと呼ばれる。私はシスジェンダー男性だ。

 シスジェンダー。その言葉が好きだ。私の大切なアイデンティティで、実を言えば時々ゲイであることよりも大きな位置を占めていると感じている。これもカミングアウトになるのかな。

 シスジェンダー、その言葉があってよかった、と思う。それは私のゲイとしての思い。ある時代に自らを「ノーマル=正常」と呼びならわしていた異性愛者/ヘテロセクシュアルのように、私も性別不同ではない自分を呼ぶ時に「ノーマル」以外の言葉を与えられなかったら、自分の性別一致状態は、私にとって受け止めがたいもの、その名を呼びたくないものになっていただろう。そんなことにならなくてよかった。

 もちろんシスジェンダーである私にとって、トランスジェンダーの存在を知るまでは、自認性別など意識さえしなくて済むものだった。それは特権だったのだろう。しかしトランスジェンダーと出会い、話を聞いて、その自認にまつわる体験を私は次のような思索によって「経験」した――

 私はただ思ったのだ、「病気か事故か事件で、陰茎や精嚢を失ったとしても、私は自分が男性だと感じ続けるだろう」と。それは証明する必要がない、強い実感だった。慄然とした。外性器の形状によって自分の性別を決定せよとトランスジェンダーに迫る人たちは、そんな私のことも責めるだろうか。たぶん「責めるはずがないよ」と言うのだろう。「だってトランスとあなたはちがうじゃない」と言うだろう。でも私は「ちがわない」と答える。

 私はペニスを失うことを想像したとき、性自認の「揺るぎなさ」を実感したのだ。ペニスがない/あったペニスが失われるという「経験のちがい」を胸に刻んだのではない。「同じ気持ちを」経験したのである。たとえペニスを失っても私は自分が男だと感じ続け、その感じ方を変えることはできない、と。――それはほとんど絶望にちかい、悲しみだった。私はきっと、変われない。

 脳が私に性別を知覚させる。「お前は男だ」と。その強さを思う。
 だから結構、トランスジェンダーに対する攻撃に傷ついていたりするんだよな。やめてくれよ、と思う。心のどこかが削られていく感じなんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?