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いつ、サンタはいなくなったのか。

本当に小さい頃のことは覚えていない。海外で暮らした幼少時代は、そこがカトリックのお国柄だったことから、クリスマスはとても派手で華やかな一大イベントであった。一般的に小さな子どもたちが思い浮かべるクリスマスの思い出は、日本に帰国して間もない日本ではじめて知ったのだと思う。

いい子にしていないとサンタさんは来ないよ、と母に言われながら12月を迎え、毎日毎日その夜を弟と二人で指折り数えて待ちわびたものだった。母の急病で緊急帰国したのだから、父はまだ日本にいない。むろん、お父さんがサンタだなんて醒めたことを考える年齢でもなかったが、周囲にはそういうことを茶化すヤツもいた。

とうとうその夜が来て、弟と二人で布団を並べて、どうやってサンタがやってくるのか。お祈りしたプレゼントはちゃんと届くのだろうか、などと話しながらいつの間にか二人で眠ってしまった。

障子から朝の光が漏れて、畳が柔らかく照らされて目が覚めると、枕元にはサンタクロースにお願いしておいたレゴの宇宙ステーションセットが置いてあった。遅寝したせいでまだ眠い弟を叩き起こして、一緒にリビングまで駆けていって、祖父母や母にレゴの大きな箱を見せて回ったことを思い出す。

そんなにインパクトのある出来事なのに、しかしクリスマスが過ぎると、意外とあの胸の高鳴りはどこかへ忘れてしまい、年末年始の慌ただしさに紛れて、ありきたりな日常の本流へと合流してしまう。そしてまた、年末が近づくと、弟とその夜を待ちわびるのである。

サンタクロースがやって来て、プレゼントを届けて冬空にソリを走らせて消えていく。そんな荒唐無稽で衝撃的な話はそうそう忘れられるものではない。確かにクリスマス周辺ではこの不思議なマジックがしっかり発動し、間もなく、魔法とは程遠い日常がすぐに戻ってくる。こんなおかしなことが、ある一定の期間、毎年繰り返されるのだ。

ところで、アンパンマンというのは実に稀有なアニメだと聞いたことがある。曰く、生まれてから小学校入学前くらいまでは、ありとあらゆる手法によって「アンパンマン漬け」にされるのだが、小学校入学を境に、アンパンマンはひっそりとお気に入りの中心から姿を消すのだと。そうやってアンパンマンは、卒業されてしまっても、また次の子どもたちがやってきてはどっぷり浸りまた卒業していくという、不思議な通過儀礼の連鎖を再生産していくというわけだ。

それと同じように、我々はいつの間にか、誰に問うとも教えられるともなく、サンタクロースの存在について、一種の卒業をする。サンタは不在なのだと自分で知る。自然に自分で理解するのである。それという目印もきっかけもないままに、あたかも自明の理のように、クリスマスというイベントの意味をずらし、換えていく。
あの日あのときあの場所で、私はサンタクロースの不在に気がついた、そしてそれを終生忘れることはない、という人がどれだけいるだろう。サンタクロースはいつの間にかいなくなって、いつからいなくなったのか、そのことを思い返してみることもない。

いつからサンタクロースがいなくなったかを問うことには、我々が思うほど大きな意味がないのかもしれない。むしろ、どの瞬間に、確かにサンタがいたのか。その「不確実な確証」を心に思い起こせる幸福の方が、その不在を思い起こすことより真実に近いのではないだろうか。
いつサンタはいなくなったのか、という不思議。その裏側には、いつか確かにサンタと存在したのだという記憶がいつも、誰にでもあるのだ。(了)

Photo by Ralf1403,Pixabay

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