見出し画像

自分を救ってくれた文章に恩返しがしたい

元気が出ないときにそっと抱きしめてくれるような温かい文章が書きたい。そんなことを考えながら毎日文章を書いている。自身の思いがどれほど実現できているのかはわからない。もしかしたらちっとも実現できていない可能性もある。

ちなみに自身が文章を書くようになったのは学生時代のきっかけだ。当時は自分の人生に絶望していた。周りの友人が馬鹿騒ぎをしているのを見てもどこか冷めた目で見ていたし、本気でこんなクソな世界は滅んで仕舞えばいいと考えていた。思春期は誰かに悩みを打ち明けるのが恥ずかしかった。悩みを抱えるたびに誰にも相談せずに1人で抱え込んでいた。話したところで理解してもらえないという諦めもあったような気がする。同年代とは考え方が違う。そんな勘違いをしていたのだけれど、大人になって思うことは僕は同年代と同じレベルの精神年齢もしくはそれ以下だった。

悩みを誰にも打ち明けられずにいた。とはいえ、どうすれば良いのかもわからない。ある日、図書室で1人でこっそり本を読んでいた。当時はスポーツをするのが当たり前で、読書をする人はダサいという環境にいたためだ。今となってはそれがくだらないことだと理解しているけれど、視野の狭い状態ではその世界の掟を守る必要があるという固定概念が生まれていた。誰もいない図書室で本を読むのは、家で夜中に布団に潜って親にバレないようにしていた感覚と同じようなものだった。

小説や偉人伝、漫画や絵本などありとあらゆるジャンルの本を貪るように読んでいた。そこには自身と同じ悩みを抱えている人もいて、その人がどのようにして乗り越えたのかも書かれていた。なんだ答えは本の中にあったんだと嬉しい気持ちが芽生えてきた。悩みを解決するために本を読んでもその糸口と出会える機会はほとんどなかった。 悩みを解決したいから本を読んだのではない。本を読んでいたらたまたま悩みを解決するヒントに遭遇したが正しいのだろう。もしかしたら脳の中にある悩みが無意識のうちにその本を引き寄せたのかもしれない。

大学生になって自分を変えるために自己啓発本をたくさん読んだ。答えが見つかるどころかどの本も結末は同じである。「自分次第」という文言で締め括られる自己啓発本と出会うたびに希望は姿を見せなくなる。人生は自分次第だという事実にはなんとなく気づいていた。それに気づかずに誰かのせいにする方が少しだけマシだった。見たいものは見ずに蓋をする。いつしか見たくないもの容量が膨れ上がり、その勢いで蓋が勝手に剥がれていく。その状態になったときになす術はない。こぼれ落ちるものをただ眺める傍観者となって、大事なものがいつしか失ったものに変わっていた。

見たくないものと向き合うのは地獄である。だが、その地獄を見て見ぬ振りすると、やがて大きなしっぺ返しを喰らうのも事実だ。自己啓発本が悪いわけではない。人生は自分次第という事実から逃れようとした自身の落ち度だ。その教訓を生かすために僕は文章を書いている。書くことは処方箋のようなものだ。文章を読み書きすることによって何度も救われている。文章に何度も救われてきたからこそ、文章に恩返しができるようになりたい。そして、元気が出ないときにそっと抱きしめてくれるような温かい文章が書けるようになれば、これほど嬉しいことはない。



この記事が参加している募集

眠れない夜に

ありがとうございます٩( 'ω' )و活動資金に充てさせて頂きます!あなたに良いことがありますように!