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人生で一度きりのおふくろの味

「わたし、料理下手やねん」

それは母の口癖だった。我が家の食卓には、いつも父の手料理がずらりと並んでいた。父は昔祖父が中華料理を営んでおり、そこで料理のイロハを学んだそうだ。だから僕はおふくろの味というやつを知らずに育った。周りには母が料理を作っている家庭がほとんどだったため、自分の家庭を異世界のように感じていた。

食卓に並ぶ父の手料理を食べているときに、母が「私の得意料理はおでんなのよ」と言う。僕が2歳までは母が料理をしていたそうなのだけれど、幼少期の記憶はほとんどないため、食べたことがないも同然である。父いわく母が作ったおでんは絶品らしい。今度は母さんが作ってよと何度言ってもそれが実現することはない。おふくろの味に憧れていた僕はずっと実現しない理想ばかりを追いかけては、父の手料理を食べていた。

高校生になったある日、学校の授業が終わって、家に帰ると部屋が静まり返っていた。夫婦共働きだからいつものことだと思っていたのだけれど、そういえば今日は夜勤だと母が言っていたことを思い出した。夜勤のときの母はいつも家にいるはずなのにいない。どこかに出かけたんだろうと思った矢先に、姉から1本の着信が入る。

「お母さんが倒れたらしい」

まったく状況が読み込めないまま制服で病院へと向かった。焦った気持ちが前に出たのか段差でつまづいて、膝に割と大きめの擦り傷ができた。痛みなど感じない。早く母の元に行かねばならぬというアドレナリンが大量に出ていたのだろう。何も成すすべがなくなったときは、神に頼ることしかできない。そんな自分が歯痒くて仕方がない。母が入院している病室に行くと、力のない笑顔を見せる母がいた。迷惑かけてごめんねと母が言う。そんなこと言わなくていいから今は治療に専念しなよと返すと、良ちゃんは優しいねぇと母はニコリと微笑んだ。その微笑みから漂う絶望が、胸をひどく痛めつける。

最初は母から過労で倒れただけだと聞いていたため、1週間もすれば帰ってくるだろうと思っていた。振り返ると、それが母なりの精一杯の気遣いだったのだろう。1週間が経っても母は帰ってこず、結局退院は1ヶ月後だった。その日は退院祝いで家族でご飯を食べに行った。

「お母さんな、癌になってしもてん」

いやー、冗談きついよと返すと、下を俯いた顔からかすかに見せる表情が深刻さを物語っていた。ああ、母が癌になってしまった。すっかり動転してしまって、何を食べたかも、その後の会話も何もかもが記憶から消去されている。人は嫌な記憶から順に忘れていくと言うけれど、それはきっと事実だ。翌日から癌の治療のために母は入院することになった。

父から手術を受ければすぐに治ると聞かされていたのだけれど、何度手術を受けても状況は一変せず、ますます病状が悪化する一方だった。抗がん剤の副作用によって母の自慢の髪の毛は徐々に抜けていく。いつしか母はニット帽を被って生活するようになった。母は自分の髪が好きだった。他人が羨むほどの綺麗なストレートで、良ちゃんの髪の毛はお母さん譲りやねぇと、喜んでいた。母のアイデンティティである髪がなくなっていく。病魔によって大切なものが少しずつ奪われていく母の心情を想像しただけで涙が溢れた。

もうこれ以上母の弱った姿を見たくなかったため、僕はお見舞いに行く頻度を意図的に減らした。父は毎日お見舞いに行っており、その度にあの子は元気なのかと聞いていたらしい。自分の心配をしろよと内心思っていたけれど、とことんまでに人に優しい母にそれは無理な注文である。僕が大好きな唐揚げを食べるときは、いつも自分の分を僕の分として皿に取り分けていたしし、週末にあそこに行きたいと言えば、有給を取ってまでたくさんの場所に連れて行ってくれた。

病状がどんどん悪化していく。でも、少しだけ容体が良くなって、家に帰ってもいいと許可に言われたことがあった。母は嬉しくなったのか、それをすぐさま電話で伝えてきた。僕も嬉しくなって、待ってるねと返すと、やっぱり自宅が一番落ち着くからねぇと返ってきた。その日から家の掃除を少しずつ進め、僕たち家族は母の帰りを待っていた。帰宅した母が開口一番にもう病院には帰りたくないわと言う。それが無理なことはもちろん母もわかっていた。僕は気の利いた言葉が何も思い浮かばなくて、そうやんねとしか返せなかった。

冬のある日、キッチンに母が経っていた。いつもご飯なんか作らんやん。どうしたん?と尋ねると、やれることは生きているうちにやっとかんとなぁと思って、得意料理のおでんを作ってるねんと返ってきた。演技でもないこと言わんといてや。母は自分の命が残り少ないことを悟っていたのかもしれない。でも、僕は母の癌は絶対に治ると思い込んでいた。食卓に並ぶ母のおでん。僕はこれがおふくろの味かとうまいうまいと鬼滅の刃の煉獄さんのように夢中になって食べていた。思い残したこと1個減ったわと母が言う。もっとたくさんやりたいことができると良いねと言うと、そやねぇと母は微笑んだ。

母の癌の闘病生活は4年ほど続いた。いつしか母の癌は他の場所に転移して、ICUに入ることになった。ICUに入る前に母とこんなことを言っていた。

「私はもうすぐ死ぬかもしれないけど、あなたたちに出会えた。もし生まれ変わっても同じ道を選ぶよ。だって幸せやってんもん」

母のお見舞いを拒絶していた自分が急に恥ずかしくなった。命の終わりを受け入れることがどれほどの恐怖なのかはまだ僕にはわからない。それでも僕の目をまっすぐ見て、言った母の言葉は心にズシンとのしかかった。

もはや母はいつ亡くなるかわからないし、助かる見込みもないらしい。世の中の医学を心底恨んだ。でも、恨んだところで何も生まれないことは痛いほどにわかっていた。行き場のない悲しみをぶつける場所がただほしいだけである。救えないほどの愚か者だったと今は思う。

医師からの余命宣告に対して、絶対に信じたくないと拒絶していた自分がいる。当時の僕は大学3年生で就職活動に励んでいた。もう助からないのならば、せめて内定をもらったと母に伝えたい。でも結局、母は僕が内定をもらう前にあの世へ旅立った。親孝行が何もできていない。後悔ばかりが残る最後だった。母の告別式の日に、「お前が親孝行を何もできていないと嘆いてるとお母さんに話したら、私の子になってくれただけでそれ以上はもう何もいらんよ」と話していたと父が教えてくれた。後悔が消えたわけではないし、この胸の痛みは一生残り続けるのだろう。

母はずっと優しい人だった。僕の誇りであり、一生越えられない、憧れの人だ。あの日、母が作ってくれたおふくろの味を僕は一生忘れないし、あの人が母で良かったと心の底からそう思った。

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