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「待つ」という行為について

早く35歳になりたい。それは自身が文章で食っていくか、別の道を選んでいるかの分岐点となる歳のためだ。35歳までに文章で結果を出せていなければ、書くことをやめようと思っている。期限を決めた方が全力を尽くせるし、延々とダラダラと続けるよりはよっぽどマシだ。映画やドラマは、場面がすぐに切り替わって、数年後の世界が描かれることが多くて心底羨ましい。人生も同じように時間がすぐに過ぎ去ってほしいと思うのは、映画やドラマをたくさん見すぎたからだろうか。

待つのが嫌いなわけではなく、特定の場合に待てないだけである。他人の遅刻には寛容なだ方と思うし、待たされているという感覚があまりない。遅刻を怒らずに笑って許すのは、気まずい雰囲気を作られるよりも、さっさとそれをぶち壊して楽しい時間を過ごしたいためだ。そのため、相手が遅刻すると分かった時点で、視点を切り替えて自分の時間ができたと考えるようにしている。急に時間ができた時の対処法を持ち合わせておけば、怒る必要もない。2時間程度なら小説を読みながら待てばいいし、仕事をしている場合もある。

35歳になった自分はどんな人生を過ごしているのだろうか。願いは文章を書き続ける選択をしていることだ。残された時間は3年もあるので、そこまで待てるかどうかに不安を感じている。そこから逃れるために、一刻も早く35歳になってほしい。

35歳まで待つ行為は、恐怖と時間があるからこその余裕を連れてくる。すぐに結果が分かれば、35歳までの期間を全力で突っ走れるが、恐怖と余裕が駆り立てる時間が、怠惰な自分を生み出す。泡のように時間を溶かして、何をしていたんだと自分を責め立てる。まだ時間が残されていると思った瞬間に全力で走れなくなる人は多い。夏休みの宿題や仕事の締め切りのギリギリまで放置する人は、それを乗り越えた快感を覚えているためだ。

僕は夏休みの宿題などを余裕を持って終わらせる人間だったが、年を重ねるに連れて、徐々に引き伸ばす癖がついてきた。待つという行為には忍耐力が必要だ。待っている間に何が起きるかもわからない。もしかすると最悪のシナリオが待ち受けている可能性もある。時間と共にどんどん膨らむ恐怖と常に戦いながら、待つのはいささか困難だ。

現実世界はドラマや映画のように場面がすぐに切り替わることもない。常に生活は地続きになっている。怠惰な自分へと墜落するのを止めてくれる人もいない。自らを自らによって管理する必要があって、怠惰な自分が顔を出すたびに失敗したと頭を抱える。だが、すでに時遅しで、何もかもが後の祭りだ。

毎日の積み重ねがより良い未来を形成するが、それを継続できる人は少ない。外的要因によって継続が困難になる場合も多く、環境に勝てない人間がほとんどだ。早く35歳になって、自分の夢の結末を知りたい。だが、そこに恐怖がないわけではなく、最悪のシナリオも想定しておく必要がある。人生は想像以上にうまくいかないことも多く、筋書き通りに進まないからこそ、悲劇と喜劇のどちらに転ぶかが蓋を開けなければ分からない。

新中野のカフェで文章を書いている。ふと窓の奥を眺めると、雨が降っていた。傘を差しながら気だるそうな顔をして信号を待っている人がいた。その隣には2本の傘を持っている人がいて、誰かの帰りを待っているのかもしれない。彼女の顔は殺伐とした空気を吹き飛ばすほどに晴れていた。雨は希望と憂鬱を同時に運んでくる。これを自然の恵みだと捉えるか、絶望だと捉えるか。そこに人生の分岐点が隠されている。人によって解釈が無限だからこそ、身に起きた出来事を全て前向きに捉えられる強さを手に入れたい。

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