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何を書くかよりも何を書かないか

世の中には、人に教えたいものと教えたくないものが存在する。SNSの発達によって、評判になった店はすぐさま人気が出るようになった。その一過性のムーブをいかにして、持続させられるかが長続きののための鍵となるのだが、それは1消費者が考えることではない。

確かにこの世に自分しか知らない情報は存在する。特に現地の情報はそこに行った人しか手に入れられないものが多い。インターネットの波をどれだけ掻き分けようとも、現地の一次情報には勝てないのがオチだ。情報を書いたり、誰かに話したりして、周りの人へ伝播させる。それが生業となっている人もいるし、SNS上で活躍している人やライターさんはその先駆者なのだろう。一方で自分の足で手に入れたすべての情報を誰かに教えなけれなならないというルールはない。自身が世に広めたいものだけを発信すればいいだけの話だ。

ちなみに僕は独り占めしたいと思ったものは、絶対に誰にも教えない。いや、正確に言えばSNSには載せないだ。友人や家族には教えたいとは思うけれど、知らない人にまで知ってほしいとは思えないのだ。もしかしたら僕は器量の狭い人間なのかもしれない。

以前、SNSで知らない人が店名を伏せておすすめのカフェの特徴だけを記載して発信していた。当人からすれば誰にも教えたくないほどお気に入りのお店だったのだろう。そこに行ったという事実だけは載せたいという気持ちがあったのかもしれない。だが、そのお店に一緒に行った人が「おすすめの場所はきちんと広めないと。〇〇さんがおすすめしていたお店はこちらです」と頼まれてもいないのに、良かれと思ってそのお店の食べログのURLを貼っていた。

想像力が足りないと思った。なぜ人に教えたくないと記載したのかについて一切の配慮がない。かわいそうだとも思った。店名を伏せた人はもう二度とそのお店に足を運ばないかもしれない。勝手にお気に入りのお店を晒された人の気持ちを考えるだけで胸が痛くなる。その投稿がどうなったかは知らない。2人の関係に亀裂が生じた可能性もある。そう思っても仕方がないと思えるような酷い出来事だった。

また今やほとんどの人が知っているback numberについての話だ。僕は学生時代に当時はまだ無名だっやback numberを追いかけていた。今はライブのチケットを当てるのも困難になったが、当時はシングル特典の招待ライブやアルバムツアーにも当選していた。ちなみに当時は大阪・梅田駅の泉の広場でCDリリースの無料ライブを開催しても、それほど人は集まっていなかった。だが、僕は親友にしかback numberを共有しなかった。それは独り占めしたいという思いがあったためだ。周りにback numberを知っている人は誰もおらず、誰も知らないバンドを自分だけが知っているという高揚感はたまらないものがあった。back numberは数年後に『花束』のリリースをきっかけに大ブレイクを果たすのだが、ブレイク前から知っていたという事実がより背徳感を際立たせたのも、今となってはいい思い出になっている。

その他に教えたくないものは地元の喫茶店だ。僕は大阪出身でおそらく10年以上そのお店に通っている。アルバイトの休憩中にモーニングに行ったり、大学の課題を片付けたりするために足を運んでいた。今も大阪に帰省するたびに足を運んでいるのだけれど、その度に誰にも教えたくないという感情が芽生えてくる。Instagramでバズっているわけでもないが、数十年にわたって。地元に愛されている喫茶店だ。店員さんの対応も心地良いし、何度も通っているので僕の顔を覚えてくれている。帰省の際に足を運ぶたびに、「おかえりなさい」と気さくに声をかけてくれるのも本当にありがたい。

現代はSNSの発達によって、あらゆる情報を集めやすくなった。ネットに転がっている情報を見た知らない誰かがいい思いをすることもあれば、その逆の可能性もある。誰かに教えたいと思ったものは、どんどん情報発信すればいい。だが、誰にも教えたくないものは自分の胸の中にそっと秘めておくのもアリだ。その際に自分の器量が狭いと後ろ髪を引かれる必要もない。独り占めしたいと思う欲求は誰もが持つ欲求なのだ。わざわざ誰かに教える必要はないし、思うがままに独り占めすればいい。人とのコミュニケーションでよく大切とされている「何を話すかよりも何を話さないか」は情報発信においては「何を書くかよりも何を書かないか」と言い換えられる。胸が高まるような出会いが起きたとき、誰かに教えるか教えないかはその人次第だ。


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