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キーンさんの日本文学研究


 現在、神奈川近代文学館にて、「生誕100年ドナルド・キーン展-日本文化へのひとすじの道」が開催中だ。6月25日には、平野啓一郎氏の特別講演があり、早々に予約していたのだが、仕事のためにキャンセルしてしまった。

 キーンさんの生前、記録を見ると2016年2月ごろだが、東京の椿山荘で行われた、早稲田演博の鳥越文蔵さんとの対談を聞きに行ったことがある。東京新聞での連載も読んでいたりして、日本文化を研究したアメリカ出身の人、戦時中は日本兵捕虜の日記を英訳した人、というくらいの知識しかなかった。

 今年に入ってから、自分で詩の朗読会を主宰しようと考え、日本文学、特に詩文について勉強を始め、どうしても明治近代日本の言文一致について考えないと、日本語の自由詩のリズムの根源について理解できないだろうと思い、図書館でつらつらと背表紙を見ていたら、ドナルド・キーンさんの「日本文学の歴史」が目に入った。

 これは、Dawn to the West: Japanese Literature in the Modern Era (History of Japanese Literature) の中央公論社の訳出である『日本文学史』近代・現代編1~8の改訂新版であると巻末の記載で知ることができた。

 「日本文学の歴史」は全18巻で、1~6巻が古代・中世篇、7~9巻が近世篇、10~18巻が近代・現代篇で、私が読んだのは第10巻の近代・現代篇の最初の1冊だ。

 改訂新版とのことで、章立ての小見出しや注釈など、出版社の構成が緻密になっている。これは私のこれまでの読書の仕方が悪かったのだと思うのだが、これまで私は、大学や大学院で日本文学を勉強する卑近さのために、作家や批評家で読む本を選ぶことが多かった。批評も総論というよりは、論文に近いような、個別の話題が多かった。総論というと、何か、中学校の時に持たされた「国語便覧」のような感じがして敬遠してしまっていたのだ。そんな中学時代から30年が過ぎ、キーンさんの本と出会い、「序 近代・現代の日本文学」を読み始めた。

 維新前の江戸の文芸の中心は戯作や歌舞伎、人情本や黄表紙などの、気楽な、馬鹿げた、暇つぶしのアイテムだった。河竹黙阿弥の作品に少し見るべきものがある程度だった。社会の上層には新しくできたお上である「明治政府」というものがあって、その明治政府はどうやら血眼になって、ドイツやイギリス、フランス、アメリカから、国作りの知識を輸入しまくっているらしい。国作りというのは、リーダーの置き方や民衆の制御の仕方などの国政や憲法、国自体を豊かにするための産業の起こし方、そのための科学や技術の知識のこと。輸入というのはヨーロッパ各国の英知を理解した人が日本人にわかるように説明すること、翻訳すること、その内容を出版する、あるいは新聞にして広めることだった。そのような国作りの西洋知識を翻訳するという公の性格のもの、あるいは大義のあるものと、江戸庶民の文芸愛好は全く性質を異にするもので、明治政府や明治日本の得た西洋からの知識とは水と油だった。漢詩文なら少しは公の性格を帯びていた。

 しかし、長い徳川時代の鎖国が終わり外からの知識を得る「ルネッサンス」の波は、文化的な面や、庶民の日常生活にも否応なく波及してきた。「文章を読んで暇つぶしをする」という行為も別ではなかった。おりしも、近代化で学校教育を拡充していた当時、庶民の識字率はぐんぐん上がり、新聞や出版物を庶民も求めるようになっていた。

 そんな風潮の中で、維新前からある戯作や黄表紙は段々と精彩を欠くようになり、顧みられなくなっていった。暇つぶしの読み物にも、ご一新的な要素が求められるようになっていった。それくらいに明治日本の庶民意識、庶民感情は、西洋文化への大いなる興味を抱いたのである。

 

「新しい日本文学のために絶対不可欠だったヨーロッパ文学の翻訳

 ヨーロッパの小説のうちはじめて翻訳されたのは、オランダ訳から重訳された『英吉利(イギリス)国 魯敏(ロビン)孫(ソン)嶇瑠須(クルーソー)著 漂流記事』で、一八五〇年(嘉永三年)のことである。ただし出版は維新後だった。『漂流記』を書いたのがロビンソン・クルーソーという著者だと誤解したわけである。だが、この本が出るより先、一八五七年(安政四年)には西洋風の挿絵の入った『魯敏遜(ロビンソン)漂流紀略』が出た。この翻訳が出た事情ははっきりせず、べつに読書界を驚かせもしなかったようだが、折から日本自体が未知の新世界へ船出しようというとき、翻訳された最初の西洋小説がロビンソン・クルーソーだったことには、暗合を感じずにはいられない。
 明治維新後に始まったヨーロッパ文学の翻訳は、新しい日本文学を創るために絶対不可欠の下地だった。仮名垣魯文(かながきろぶん)をはじめ戯作者の書いたものを見ると、戯作文学の名脈はすでに尽き、古い形骸の中にいくらか当世風ゴシップを注ぎ込んでも蘇生は不可能であることがわかる。だが、維新後も少なくとも当分のあいだは、ヨーロッパ文学を一日も早く読みたいという声は起こらなかった。明治初期に政府が海外に送った留学生は、西洋列強から日本を守るべく大砲、造船、ときには政治を学んだが、ヨーロッパ人の精神生活には無関心の者が多かった。西洋にも単なる科学技術のほかに何物かがあると悟ったのは、ごく少数に過ぎない。そして、中村敬宇(けいう)は、その一人だった。」(「日本文学の歴史」10ドナルド・キーン著、徳岡孝夫訳、106~107ページ)

 と、ほんの一節を引いただけでも、キーンさんが、どれだけ読書して、日本の本を読んで論じているのかがわかる。
 これより前の章段では、江戸戯作の個別の作品について、内容も詳しく紹介しながら論じている。次の章で明治期の政治小説を論じ、その次の章はいよいよ「坪内逍遥と二葉亭四迷」となるのだが、キーンさんの逍遥や四迷の論説については別の機会に考えるとして、次の箇所を引用してみたい。

「西洋の文学への逍遥の関心は、のちにシェークスピア劇の完訳となって結実するが、それほどの傾倒にもかかわらず、彼の訳になるシェークスピアの中には馬琴と歌舞伎の影響が明瞭に認められる。日本の戯作・歌舞伎と西洋文学という二つの教養の流れは、逍遥の中でときにはぶつかり合い、ときには寄り添いながら、生涯の作品を貫いて流れる二つの川になった。」(同前、169~170ページ)

 逍遥が「小説神髄」を書いたのは若干27歳。幼少から憧れた滝沢馬琴の詩文が血に注いでいた。キーンさんはそこに注目している。逍遥は大好きな馬琴を批判して「小説神髄」を書いた。逍遥ほどに馬琴を読み込まなければ新しい小説を考えることができなかっただろうということである。ただ輸入しただけでは、日本近代文学の受精卵は生まれなかったのだ。これこそが、その後、ロマン主義や自然主義の日本独特の受容、ひいては私小説への助走となっていくのではないか、、、!

 キーンさんの本を読んで興奮冷めやらぬ2022年の夏だ。

※『魯敏遜(ロビンソン)漂流紀略』というのは、「北槎聞略」みたな感じ?。漂流もの

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