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断章【00011】~【00015】

【00011】

しかし、エロスを裏テーマにして澄まして活動していたのは、
現代アートの創始者とも後年になって再評価が著しい、
マルセル・デュシャンその人にほかならない。
「階段を降りる裸体No.2」に男性便器に偽名で署名した「泉」、
「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)」、
「1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ(通称:遺作)」など
人はエロティシズムに依拠しているのに隠してやまないという発言にも
見られるように、デュシャンはエロス、エロティシズムを
裏テーマにして 制作をしていたのではなかったか。
しかし、だからと言って彼の評価が下がることはなかった。
それは過大評価だとしても今も変わらない。

だからこそ池田満寿夫は今一度再評価されるべきなのだ。


【00012】

デュシャンのエロティシズムは、
現代アートの世界においても例外かもしれない。
女性の性器をリアルに描写したクールベの「世界の起源」が
またそうであるように。 話は異なるが、
この国においては現代アートの始祖たるマルセル・デュシャンなど
なかったこととして、明治時代に捏造された洋画や日本画、
公募団体組織、 そしてアニメやコミック表現を
そこに接続して(村上隆のスーパー・フラットとは まったく異なるもの
異なる文脈ではあるが)、ガラパゴス化した日本美術を
ギャラリーとコレクターおよび作家の主導で
構築しようとしているようにも見える。
大山エンリコイサムがラッセン本で、
100年後のフィクションとして、
ラッセンが評価される現代アート界を皮肉ったのとは
まるで異なる事態が そこには透けて見えないだろうか。

新たなディストピアとして。


【00013】

しかし、本当にエロは現代アート足り得ないのだろうか。
それはそれで再考する余地はありそうである。
物議を醸し、非難や批判を浴びせられながらも、
現代アートの世界でもエロは存在している。
それらをここに逐一あげることはしないが、
現代アートにおいて、 いやジェンダーが取りざたされる
現代アートにおいて、 エロを性を表面化する表現は
今まで以上に困難ではあるのは事実だ。
それらは今後においては潜在化する可能性が高いだろう。
主流となって展示され批評によって前景化されることはなくなるだろう。
しかし陰に隠れるかのようにして、
人目につかない場所で確かに存在するのではないか。
デュシャン以前の美術界がそうであったように。
ピカソやマティスにおける裸体表現が主流としてではなく、
傍流として密かに描かれ飾られ
ギャラリーからコレクターに買われたように。
エロは主流とはなり得ないが、
確かに密かに遥かな過去から現在に至るまで 続けられ隠され続けてきた
傍流の大テーマなのではなかったか。


【00014】

欧米で発明され展開して来た現代アートも、
印象派から立体派などを経て、
マルセル・デュシャンを始祖ともしながら、
その中心をパリから ニューヨークに移し、
抽象表現主義やポップ・アート、ミニマル・アート、 ランド・アート、
コンセプチュアル・アートと多様化を続けながらも、
その考え方があまりに西洋=欧米に偏った西洋=欧米中心主義を
反省せざるを得なくなり、 しかし、どうのように取り繕おうとも
結局はその西洋=欧米中心主義から 逃れることは
どう考えても簡単ではないという性質を再認識し痛感し、
一種の停滞を余儀なくされている西洋=欧米の現代アートの現状では、
中国や韓国やインドネシアなどの、
いわゆる後発の非欧米地域の台頭が 目まぐるしく起こっているが、
それでも西洋=欧米発祥の現代アートは、
いわゆる後発の非欧米地域の新たな現代アートとされる作品をも取り込み、
さらに大きな現代アート・ワールド(=現代アート・マーケット)を
構築しようとさえしているようだ。
逆にそんな世界=現代アートの一大潮流とはまったくリンクせず、
現代アート自体を総合的に理解も消化もできず、
現代アート界および海外からもほぼ認識も評価もされない日本においては、
洋画・日本画・公募組織団体(主に明治時代に捏造された絵画様式)に
注力しようと、 ギャラリーも作家もコレクターも
不毛にも躍起になっているようにしか見えない。
そこには多分、多様化や単なる変化はあっても、 進化や深化、
ましてや進歩も批評も存在しないのではなかったかと危惧しかない、
というのが正直な感想だ。そこに現代アートはあるのか。
ガラパゴス化した形骸化した美術しかあり得ないのではないか。
まあ自分の感想が間違っているかもしれないという反省は持つとしても、
正直にこの国の芸術を鑑みると末恐ろしくもなる、。


【00015】

今の日本のアートは、明治時代に戻ってやり直すように見える。
新たなアートフェアや、季刊化した「美術手帖」以外の美術雑誌、
テレビが担ぎあげる美術の傾向や、「日曜美術館」の傾向などを見ると、
欧米の現代アートは脇において 今ある日本のアートやイラストや工芸を
明治時代の混沌状況からやり直すということ。
そんな風に見えて仕方がない。
新たで改めてのガラパゴス化か。 だから私の出番はない。
いやそもそも興味もない。 まさに網膜的。
だから国内外で評価されて来た作家たちである草間彌生、村上隆、
河原温、杉本博司、 李禹煥、川俣正、宮島達男などは放置した印象に
思える。 これじゃあ負け犬の遠吠えにもなりはしないが、
過剰化・多義化には、意味も意義も興味も持てないのも事実。
必要なのは究極化。


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