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【詩】虻の祈り

(1)
「もう何もうむな」と言われたから
おれは 闘うのをやめた
闘いとは うむこと まもること
何もうまないなら まもるものもない

そうして何もうまずにいたら
虚しさが よみがえった
それはあっというまに 地球のすべての場所を
覆い隠して 夜にした

けれどもニュクスは なにもうまない
死も 運命も 眠りも 夢も
繋がれ 喰らわれる創造の神も
すべて まどろみの内に微笑む

どうしたことか? 詩人よ
おれはひとり この部屋の闇に溶けて
ただ 虚しさを相手に
ただ 空をまなざすばかり
ただ 言の葉の裏の裏に
ただ 言食む唇を閉ざすのか  
   
(すると 一匹の虻が 静謐な面持ちで
おれの唇にとまり 喋り始めた)

(2)
(虻が――”大いなる魂(マハトマ)”が謳いだした! ――魂の叫び!)

情熱よ! 我が青春よ!
すべては嵐の内に消えたのだ!
時という名の老人の 気まぐれという名の嵐の内に!

ずっと昔、——けれども神話よりは現実的な時代の話だ
無言の抱擁と 焦点の合わない絶頂が
ベッドに占拠された 一等地の明け方にあった
いまにも壊れそうなほどに繊細なおまえにゆるされたとき
言の葉とおれは ――嵐の内の《永遠》になった!

情熱よ! 我が青春よ!
すべては嵐の内に消えたのだ!
時という名の老人の 気まぐれという名の嵐の内に!

まだ 一瞬が《永遠》であったとき
かつて まだ俺が両足で立っていたとき
おれは いつでも屋根に登って
そこから 星空へ向かって
落ちることが出来た  ——どこまでも!

情熱よ! 我が青春よ!
すべては嵐の内に消えたのだ!
時という名の老人の 気まぐれという名の嵐の内に!

時折 流れ星をのせて
鳥たちが白い穴のあいた黒い絨毯の上を滑っていく
瞳の無い魂だけにしか知ることのできない 
それはそれは美しい夜 最後の夜だ
もう明けぬ夜を ――どうして一夜と言えようか!

(3)
(虻はちいさく咳ばらいをして それから続けた)

その名は ひかりだった
 その声は ひかりだった
まばゆまばゆい ひかりだった
        それが遠ざかる  夜の向こうへ

その言葉は ひかりだった
 その笑みは ひかりだった
まばゆいまばゆい ひかりだった
         それが遠ざかる  夜の向こうへ

描かれたものが渦巻くキャンヴァスを前に
ゴッホが感じたものを おれは知っている
ぐるぐるぐるぐる ぐるぐるぐるぐる
 巡るめく 月 尖塔 列車 蓮   ——《混沌》の兄たち

そぞろに行く人々の足並みは軍靴に似て
 魂の怒号は炎となってすべてを焼き尽くした
残るは《il y a イリヤ》  ——”ある”のみ
 なぜなにもないのではなく なにかがあるのか?

(4)
(虻はもう くたびれた様子だ)

おれはもう たくさんの人間の唇に宿って来た
唇だけじゃない ——耳に、鼻に、目に、心に宿った
留まってはいられない おれは落ちねばならぬ
眩い魂の行き着くところに 落ちねばならぬ
        ――ゆきてかへらぬ いきてかへらず

まだまだ 語っていないことは山ほどあるさ
けれども おれはもう終わりだ
これほどに やつれてしまったのも
おれがうまれた理由と 同じくらいに
分からないことだ  ——おれは何も知らない

リルケもゲーテも、ヴェルレーヌも
ついには 教えてくれなかった
      ——どうして、おれはいつも一人なのか

(虻はそうして 身なりを整えはじめた)
(おれの眼には それは《終わり》にみえた)

(4)
(虻はそれから、おれのほうをじっと見て、とうとう観念したかのように言い出した。その見開いた、焦点の合わない瞳は、――おれのようだった)

おれはもう 終わりだ
すべてに意味が 宿ってしまえば
おれの居場所は どこにもない
おれがいたはずの 《空白》は
今や おまえの中にしかない

詩の静謐さの行間に垣間見える
ながいながい退屈と不安を 
おまえは耐えねばならぬ
荒地に春がライラックを咲かせるのを
庭に埋めた死体のような面持ちで

言の葉の木の根の奥底に
ねむっている夏のぞっとするような気配を
おまえは耐えねばならぬ
歯車に押しつぶされる道化の華が
独裁者を演ずる人間失格者の胸元に添えられるまで

ああ、純情よ! 磔のセリヌンティウスよ!
その体躯はもはや朽ちている
そして 《永遠》は仮面の下に隠された
眼を閉じるたびに おれは思う
俺がもしも形を得るならば その終わりは美しい

(虻はそうして おれの目の前でしくしく泣きながら
 祈りを捧げて 事切れた)

(5)
おれの家の屋根裏部屋でひらかれた 虻の葬式には
近所の野良猫と 月 そしてたくさんの沈黙が参列した
おれは ひとりひとりと目を合わせ 顔をそらし
あるいは 俯いたりなんかしていた

幾時代かが 過ぎ去って
夜半の波止場で おれは虻のことを思い出した
眼を閉じて 聖書の文句を口にしたとき
ふいに あの羽音の予感が ――ぶぅん と
振りかえって おれが見たのは
ガラス細工のような羽 が ぐるぐると
舞っている 冬 みたいな 雪虫の さびしい さびしい

     ――沈黙だけだ

いまでもおれは 時折虻を探して
野山を巡り 都市を歩き 谷を越えて
海の中をさまよってみたりする
けれども、かなしいかな
どこにいっても もうおれの口は
おまえの 止まり木にはなれないのだ

(そして、残酷な四月の雨だけが、笑っている)





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