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決行⑸

待ち合わせ場所の、昂理駅西口前の奇妙な形をしたオブジェの前に着くと、白いワンピースにベージュのカーディガンを羽織って、麦わら帽子を被った女が空を見上げて佇んでいた。それから、はっとしたかのように周りをキョロキョロ見回し、こちらに気づくと女はぷくりと頬を膨らませた。

「今何時だと思う?」「十三時十五分だな。」

「今日の集合時間は何時?」「十三時だな。」

「何か、言うことは?」「自己ベスト更新だな。我ながら頑張ったと思うよ。足がパンパンだ。決め手は三丁目の床屋のコーナーを……」

「あきれた。今日は貴方のおごりね。」

女はそう言ってくるりと背を向け、スタスタと歩き出す。太一は後ろを向く寸前で彼女が小さく微笑んだのを見逃さなかった。

「何してるの?置いてくわよー。」

内なる昂揚を隠して怒りの演技を続ける彼女の健気な無邪気さにうたれ、太一は少しだけ悪びれたそぶりを見せた。

二人は近くのチェーンのカフェに入り、窓際のテーブル席に座った。もう演技に疲れたのだろうか、向かいのソファー席に座る彼女はコーヒーに大量のミルクとガムシロップを入れながら、いつものようにニタニタ笑っている。

彼女、新山彩香とはバイト先で知り合った。去年の夏、学生の頃からバイトを続けていた近所のコンビニが七月に潰れてしまい、太一は無職のまま貯金を切り崩す生活を送っていた。

バンドでリードギターを担当していることもあり、エフェクターやライブの出演費にかかるお金は削ることはできない。一刻も早く次の職を見つけなければならなかった。

それでもなかなかバイトは見つからず、食費を切り詰めて辛うじてその日暮らしの生活を送っていると、近所に大きめの低価格のアパレルショップができるということを小耳にはさんだ。

すぐさま求人誌を開き調べてみると、オープン時ということで時給は従来の衣料品点の一・二倍ほどであった。さらに社員割引が三割も効くということも、金欠の太一には嬉しかった。太一はすぐに履歴書を書き、応募した。

面接の一週間後、太一はあっさりと採用された。てっきり倍率が高いものだと思っていただけに拍子抜けだったが、ともあれようやく職に就くことができたことに安堵する。

数回の全体研修を終え、いよいよ八月の半ばにそのアパレルショップはオープンを迎えた。オープン初日は各地から人が押し寄せ、店内は掘り出し物を探し求める客でごった返し、さながらフェスのようだった。

同僚はみな研修で染み込まされた接客用の笑顔を浮かべて、うわづいた声で必死に商品プロモーションを叫び、活気出しをしていた。中でも一際声を張っていた娘がいて、太一は思わず目を奪われた。

かなり緊張している様で、散々練習したはずの笑顔も引きつっていたが、それでも懸命に活気出しをし、深くうなずきながら親身にお客様対応をしている彼女の姿は非常に誠実で気持ちの良いものだった。

太一もその姿に鼓舞され、長かったコンビニバイトを思い出し、次々と押し寄せる客の大群を得意のレジ打ちでさばいていった。その日は結局閉店まで客足が途絶えることはなく、スタッフは終始品出しや清掃に忙殺された。

しかし、多忙だったのもオープン後一週間ほどで、それ以降は徐々に来店数は落ち着き、一ヶ月後には、店はようやく「通常」を経験した。

未経験の新人バイトも多く、最初のうちは仕事に追われ、あたふたとしていたスタッフもその頃にはみなある程度仕事に慣れ、客の少ない時や、バックルームではスタッフ同士で会話ができるくらいになっていた。

太一はコンビニバイトの経験から開店時はレジを任せられることが多かったが、閑散期には他のスタッフが研修も兼ねてレジをすることが多くなり、次第にフィッティングルームに配属される回数が増えていった。

バンドは夜か週末に活動することが多いため、太一はシフトを主に平日の日中に入れることにしていた。この時間帯は客足が非常に少ないことも理由の一つだった。

また、平日の日中には太一のようなフリーターや主婦が多く、太一以外のフリーターの連中は常に上の空で人と関わりたがらないし、主婦のスタッフは同年代の主婦友達と世間話で盛り上がり、あまり深くは干渉してこないのもありがたかった。

その日も太一はぼんやりと新しい曲の構想を練りながらフィッティングの仕事をしていた。

休憩から上がり、フィッティングルームに戻ろうとすると、行列ができている。太一が急いで戻ると、何やら女の子があたふたしていた。大方裾上げや在庫確認などがバッティングしてキャパオーバーしまったのだろう。

太一は出口側からフィッティングルームに入ると、在庫確認と裾上げのお客様対応を引き受けて、女の子に受付に専念するように促した。一通り対応を終え、落ち着いたところで、どうして応援を呼ばなかったのか聞こうか、などと考えていると、女の子の方から話しかけてきた。

「すみません、助けていただきありがとうございました。」

聞き覚えのある声だった。急いでいてちゃんと見ていなかったが、よくよく顔を見てみるとオープン時に一際声を張り上げていた人一倍健気な娘だった。

「あ、いや、全然大丈夫だよ。こういうときは遠慮せず応援呼んでいいからね。」

「そうですよね。私、テンパっちゃってて……。何してるんだろう。研修でも習ったことだったのに。」

自分を責め立てるようにその娘は言った。

「あんまりフィッティングに入ったことなかったの?」

「あ、はい。まだ二回目です。そんなこと言い訳にならないですけど。」

「随分とストイックだね。まだ二回目でそんなにできるなら自信持っていいと思うよ。大事なのは結局慣れだし、少しずつ覚えていこう。あ、そうだ。初めましてだよね?相模太一です。よろしく!」

「新山彩香です。よろしくお願いします。相模さんって、優しいですね。」

そう言ってにっこりと笑う彼女の顔は、普段の端正で大人びた印象とは違うあどけなさを感じさせ、そのコントラストがとても眩しかった。

それ以来、彩香とシフトが一緒になることが多くなり、仕事を教えるかたわら少しプライベートな話もするようになっていた。

話を聞いてみると、彩香は前の年の春に上京してきたらしく、現在大学二年生だということだった。シフトが一緒になる日は全休らしい。

好奇心から大学名も聞いてみると、彩香は恥ずかしそうに通っている大学を言った。彩香はトップクラスの私立大学に通っていて、そこで文学を専攻しているという。

道理でストイックで大人びているんだな、と感心していると、心の声が口から漏れていたようで、彩香は照れ臭そうにはにかみながら声をひそめて、「私、バイト初めてで、仕事できないから、通ってる大学ってあんまり知られたくないんですよね。みんな、頭いいんだから仕事できるんでしょ、みたいな目で見てくるし。相模さんだから話しましたけど、他の人には言わないでくださいね。」と言って左手の人差し指を口に当てた。

下から覗き込む彼女の大きな二重の目は人形のように澄んでいて、太一は自分の鼓動の音が激しくなるのを見透かされるような気がして、冗談めいた口調で「言わないよ。」とだけ吐いて仕事に戻った。

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