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決行⑷

太一の視線の先では、未だに漆黒が列をなしている。

さっきまで滝のように吹き出していた汗も、季節外れの冷気に当てられてすっかり乾いていた。

時計を見ると、もう十時を回っている。少し休み過ぎたようだ。冷えて硬直した筋肉をほぐしながらゆっくりと立ち上がり、空になったペットボトルを自販機の横のゴミ箱に投げ込む。

今時珍しいバケツタイプのゴミ箱に律儀に貼られた白いテープには大きく「ペットボトル」と書かれていたが、中を覗いてみるとカンやビンだけでなく、コンビニ弁当やタバコの吸い殻、使用済みのプリペイドカードからえっちな雑誌まで様々なモノが雑多に捨てられていた。

それらは人間の欲望を吸い込んで怪しげな光を発していて、真っ白いゴミ箱はごちゃごちゃにないまぜになって赤黒く輝く人間の業を、胡散臭く、清廉にその中に閉じ込めている。

太一はじっとゴミ箱を見つめた。

こうしている合間にも「決行」を横目に、たくさんの人が素通りしていく。数年前に「決行」に向けられていた怪訝な眼差しは今や姿を消し、人々はまるで「決行」は風景の一部だとでも言うように体温のないまっさらな視線を送っていく。

ここ数年で心なしか人々の無関心は強まっている気がする。小さな頃故郷で感じた温かな街の視線は、今はもう失われてしまった。くすんだゴミ箱の前で立ち尽くす太一の後ろを、透明な人影が足早に過ぎていく。

いつの間にか太陽は雲に隠れていた。仄暗い曇天から漏れ出る陽光が、乾いた汗で冷え切った身体を唯一柔らかく包んでくれるような気がした。

ポケットにしみた汗で少し濡れたイヤホンを耳につけ、音量を最大にする。街を黒く染めていく瘴気が爽やかな色をした熱い音に遮られていく。再び身体の中に鮮やかな世界が広がっていくのを感じながら、太一は来た道を引き返した。

家に着き、扉を開けると湿気でむわむわした生温かい空気が太一を迎えた。同時に冷気に押さえ込まれていた汗がどっと流れ出す。

太一は冷蔵庫からよく冷えた二リットルの麦茶のペットボトルを取り出すと、注ぎ口が口に触れないように注意して乾ききったのどを潤した。

一気に半分ほど麦茶を飲み干し、絶え間なく流れ出る汗でべたついた服を脱いで脱衣所に向かう。脱いだ服を乱暴に洗濯機に投げ込み、太一はシャワーを浴びた。

上から勢いよく降り注ぐお湯によって皮膚に張り付いた汗や汚れが流れ落ちていく。肉体的な快楽に身を委ねながら、太一は考えあぐねていた。

新曲が書けない。

気晴らしにランニングをしても、こうやってシャワーを浴びてリフレッシュしても少しもアイデアが浮かばない。ライブはもう来週に迫っている。今日中には音源を出さなければもう間に合わない。

曲のイメージ自体はぼんやりとあった。今まではそこから、意識の向こうに隠された想いを取り出し、丁寧に言葉で型どって、様々な楽器で色付けをして曲を作り上げることができた。

しかし、今回はどうにも想いが取り出せない。目をつむって向き合おうとしても、黒いもやがかかったように全体像が見えてこない。それでもなんとかイメージに足を踏み入れるが、一歩入った途端世界は闇に包まれ消えてしまうのである。

曲が書けなくなったのは最近のことだった。それまでは耳にあらゆるイメージが音として流れていたのだけれども、今は静寂がしずしずと巡っている。

きっかけは分からない。俗に言うスランプなのだろうか。

確かに今までも思ったように曲が書けないことはいくらかあった。しかし、いずれも理想の実現を原因とした葛藤によるもので、今回のように曲のテーマ自体がつかめないというものではなかった。

経験したことのない困難にどんなに戸惑っていても、現実は待ってくれない。少なくとも今日中に曲を書きあげなければならないということは覆りようのない事実だった。

今までの経験や知識でそれっぽく曲を形にすることなら簡単にできる。最悪、なんとかするしかないだろう。太一はそう腹をくくると、何か大事なものが汗と一緒に流れ落ちていってしまう気がして、どうしようもなく切なくなり、急いで湯栓を締めた。

風呂場から出て生乾きのフェイスタオルで身体を拭いていると、シンクに置いていたスマホがブッと短く一回震えた。

メッセージを開くと、極限までデフォルメされた落書きのようなクマのスタンプが大きく口を開けて首をかしげている。その上に五歳児が書いたようなブレブレの字で、「いまどこ?」と書いてあった。

画面の上の小さい時計に目をやると、時刻はもう十二時を過ぎていた。まずい。そういえば、今日の十三時に昂理駅前のオブジェの前で待ち合わせをした気がする。

昂理駅まではチャリをかっ飛ばしても、ここから三十分はかかる。長針はあと少しで半分を回りそうな位置にきていた。

太一は急いで手のひらに十円玉ほどのワックスを出し、ワックスが透明になるまでしっかりと両手で伸ばして、まだ乾ききっていない髪にもみこんだ。

数ヶ月前に当てたパーマがほんのりとしなっていることを確認すると、洗面台の照明の右下にしまってある電動シェーバーを取り出しひげを剃る。

あご下の肉にカビのようにこびりついた剃り残しは見なかったことにして、熱くなったシェーバーを無造作に棚に投げ込み、ベランダへと向かった。

太一はバスタオルを腰に巻いてベランダに出ると、物干し竿にかかったピンチから赤色のボクサーパンツを下に引っ張った。洗濯バサミがボクサーパンツを離した瞬間、ピンチが上下にぐらりと揺れる。

上下に跳ねるグレーのカバーソックスをすかさず右手で掴み、同じように引っ張る。手に握られた洗濯物は、ひんやりとしていて湿っているのかただ冷たいだけなのかよく分からなかった。

揺れるピンチの横で、ハンガーにかけられたお気に入りの柄シャツはしわしわによれていた。とてもではないがアイロンをかけている時間はない。

太一は仕方なく、クローゼットから無地の黒Tと、グレーのギンガムチェックのトラウザーパンツを取り出し、そっと埃を払った。

部屋の隅の姿見の前で取り出した服に着替え、テーブルの上に置かれた金色の腕時計と銀のネックレスを身につける。鏡ごしに時計を見ると、十二時四十分だった。

太一は黒の合皮のリュックサックに財布や飲み物などを適当に詰め、靴箱の上のボロボロの定期入れと自転車の鍵を右ポケットに入れた。

最後に戸締りだけ確認し、ようやく家を出る頃には、もうすでに時計は十二時四十五分を指していた。

太一はランニングで疲れきった脚を酷使して、待ち合わせ場所へと急いだ。

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