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決行⑵

当時大学生だった太一は、「決行」の前日、いつも通り友人たちと酒を飲んで一晩を明かし、翌日は一限をサボって、いつも通りダニだらけの床で雑魚寝をしていた。

太一が異常な寒さを感じて目を覚ましたのは、昼の二時のことですっかり三限も終わっていた。昨日の深酒がたたったのか、薄着で布団もかけずに寝たのが悪かったのか、全身に悪寒が走り、割れるほど頭が痛かった。

ぼさぼさの頭をかきむしりながら立ち上がり、シンクに置きっ放しになっていたぬるい麦茶を、もう二日は洗っていないコップについでぐいと飲み干す。急いで、ダンボールに入ったままの備蓄用の二リットルの水を取り出して埃のかぶった電気ケトルに注ぎ、湯を沸かす。

戸棚の食器の裏に隠されたやっすいシジミのインスタント味噌汁をつかんで、切れ目がついているかもよくわからない銀袋を無理やり引きちぎる。

寝巻きの白Tに味噌がとび、小さくシミがついた。シミを取ろうか、いっそ捨てようかなどと考えている間にケトルがけたたましく電子音を発した。

戸棚からお椀を手に取り、味噌を入れ、その上からお湯をかける。薄い腐敗臭が鼻を突く。構わず味噌汁をかきこむと、舌先に何かが張り付いたような火傷痕がついた。

味噌汁を飲み終え暫く横になっていると、次第にガンガンと痛んでいた頭もすっきりとしてきたが、気持ちの悪い悪寒は残ったままだった。心なしかお腹が痛んできた気もするが、まあ、気のせいだろう。

太一はぼさぼさの髪も整えないまま、味噌のついた白Tで気だるそうに家を出て、軽い風邪薬を求め、アパートのはす向かいにあるドラッグストアに向かった。

家の目の前の押しボタン式信号で待っていると、黄色い帽子をかぶった小学生たちが大きな声で喧嘩をしながらやってきた。なんとかドンは強いだの弱いだの、〇〇パンは最強だの最弱だの、そんな話だった。

今の自分にとってはどうでもいいような小さな話でも、彼らにとっては譲れない一つの世界なのかもしれない。果たして俺はそんなこだわりを今でも持っているだろうか、歩行者用信号の横にあるゲージが減っていくのを見つめ、そんなことを考えた。

ゲージが底を尽きると、ウルトラマンの三分タイマーが切れた時のような電子音が響き渡り、感情をあらわにしていた小学生たちはいつの間にか仲直りを済ましていてニコニコしながら横断歩道を渡っていく。

背を向けてかけていく黄色い集団は、白と黒しかない世界に尾を引くようにほんのりと彩りを加え、世界を暖かく色付ける。太一はその後ろをゆっくり歩きながら、少しだけ優しさに触れた気がした。

気づくと信号はもう点滅していた。急いで渡り終えた背後では生き急いだクルマが、誰もいない横断歩道で人を轢いていく。

あの活き活きとした黄色い空間が機械的に真っ黒く塗りつぶされていく様を、目がしみるような刺激臭がまざまざと語ってくる。

この世の無常とはもしかしたら無情なのではないか、そんなどうでもいい言葉遊びでもしていないと自分の中の黄色い気持ちまで排気ガスに黒く染められてしまう気がした。

レジで買い物をすませ、外に出ると、向かいの歩道で全身黒づくめの服を着た数人の男女がプラカードを持ち、メガホンを通して何やら叫びながら行進していた。

量販店で買ったような粗末なメガホンからヒステリックな甲高い女の声が流れ出る。それに続いて周りの男女も生身の、人間の声で同じ叫びを繰り返す。

その声はひどく冷淡で、生気など一ミリも感じられないにもかかわらず、声を発する人々の顔はこの上ない笑顔で、そのコントラストが異様に不気味だった。

太一は何を言っているかはよく聞き取れなかったが、何だか彼らの言葉を聞いてはいけないような気がして、思わず耳を塞いだ。しつこくこびりついて離れないおぞましい声が去った頃には、悪寒はもう治っていた。

太一は虚しく手にかかっている風邪薬をやるせなくポケットに突っ込み、向かいの歩道に残ったどす黒い空間を尻目にドラッグストアのトイレに駆け込んだ。

それが「決行」だと分かったのは、次の週のことだった。

いつものように三限をサボってベッドの上でスマホをいじっていると、ブンと「〇〇さんがいいねしました」というバナーが下がってきた。無意識にバナーを踏むと、そのつぶやきは小さなニュース記事だった。

見出しは「昂理市でデモか 黒づくめの集団が行進」という非常に簡素なもので、昂理市という比較的小さな街で起きた事件だからかいいね数は四百余とさほど多くなかった。

太一の住む昂理市は、県の中心都市から伸びる地下鉄の北の終点からバスで二十分ほどに位置する、住宅街を中心とする小綺麗な街である。

二十〜三十年前には空き地だらけであったというこの地も、ここ十数年ほどでガラリと様変わりし、今では一戸建ての密集する閑静な住宅街となっている。

昂理市は都会から少し外れた郊外に位置することから地価は都会に比べて比較的安い。しかし、交通アクセスが良く、開発当初から大型ショッピングモールの建設が謳われるなど利便性の高さが注目され、郊外にしてはそこそこの価格であった。

そうした事情からこの市にはまさに中流階級と呼ばれる、金持ちでも貧民でもない、いわば「普通」の人々が集った。住民は県境をまたいで移住してきたものが多く、かつてそこに存在していた方言は利便性の点から排斥され、昂理市では今も主に標準語が用いられている。

一時は開発に乗じて人の流入が激しく、人口増加率全国五位を記録することもあったが、今はその流れも落ち着き地価も安定してきていた。

住むことに特化したこの街には特に目立った観光地も、グルメ王の唸るお食事処もなく、あるのは大きいだけの画一的なショッピングモールとどこにでもあるファーストフードのチェーン店だけである。

住民も建物もどこまでも「普通」なこの街は、住むにはいいが訪れる価値はさしてない、意味的に小さな街だった。

太一は大学進学とともに、大学から五駅ほどの今のアパートに引っ越したのだった。それから八年間変わらず、今も同じ部屋にすみ続けている。

家賃は五万八千円で、ユニットバス・キッチン付きの六畳一間。引っ越し当初に親が張り切って買ってくれた作業机の上は、乱雑に置かれたCDや買って一度も開かなかった教則本、よく切れるのでめんどくさくなってそのまま放置されたギターの弦の残骸などで覆われている。

当初はピカピカに磨かれたフローリングがツヤツヤと輝き、部屋中を明るく照らしていた床も、今や足の踏み場もないほど物が散乱し、長いこと陽の目を見ていない。

そんな中、机の横、部屋の奥の方に位置するベッドの上にはタオルケット以外長く物が放置されることは無く、ダニが繁殖していることを除けば、その上でただスマホをいじって無為に時間を過ごす太一も含め、当初とは何も変わっていないようだった。

太一は引越し当初と何も変わらない手つきで記事の詳細をクリックした。アプリ内でブラウザが開かれ、公式サイトにとばされる。さっきより少しだけ大げさに飾られた見出しに次のような短い記述が続いていた。

「先週、八月十八日、昂理市で全身黒い服装をした男女数名が、大声を出しながら住宅街を練り歩き、近隣の住民の通報によって迷惑防止条例違反で書類送検された。彼らは自らの行為を『決行』と称しており、県警はなんらかのデモを起こそうとしたとの方針で捜査を進めている。」

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