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決行⑴

むせかえるような湿気でべたついた皮膚がシャツに張り付いている。

少し走り過ぎてしまった。一度疲れを意識すると、途端身体が重くなったように感じる。前に進むのを拒もうとする脚にむち打ち、向かいの歩道のベンチまで歩を進める。

隣の自販機で炭酸を買って、ベンチに腰を下ろし、相模太一は決まった間隔で色を変え続ける信号機をただぼうっと見つめていた。

今日はランニングにはもってこいの気候だった。

季節は夏だというのに、今朝は半袖では底冷えするほど冷え込んでいて、太一は衣替えでタンスの奥にしまいこんでいた長ジャージを取り出し、入念に準備運動をした。

コップ一杯の水を口に含むと、ポケットから白いイヤホンを取り出して耳に装着し、「ランニング」とだけ名付けられたプレイリストを再生する。

同時にキーボードの美しいリフが流れ出し、その美しさとは対照的に荒々しいギターが入ってきて、バンドサウンドを作り上げる。

不安定なボーカルの声はお世辞にも上手いとは言えないけれど、切に自分に問いかけてくるようで、太一は何だか足を止めてはいけないような気がした。

曲が終わっても次の曲は自動で再生され、その場その場の好みで追加されてきた統一感のない音楽たちが耳元で次々と奏でられる。

それぞれの曲のリズムに自然とペースが引っ張られていき、まるで曲が自分の体を借りて内に秘めた生を体現しようとしているようだった。

自分の中に作曲者や作詞家、演奏者、ひいてはその曲を聴いているはずの他の観客たちの想いまでもが入り込んでくる、そんな感覚が心地よかった。

プレイリストが一周すると再生は止まり、身体には相模太一の意識が戻ってくる。そうして、精神は肉体を駆け巡り、生を貪るかのように信号を出すのである。

ランニングの後、太一は決まって瞑想をする。

走っている最中に休められた精神が鋭敏に世界を知覚し出すのを抑えて、自分がいない間に自分に入り込んできた自分ではない何かの痕跡を探し出そうとするのである。

身体に深く染み入る炭酸の快さに気を取られそうになりながら、寸分狂わず点滅する信号機を見て昂ぶる心を鎮める。

ひんやりとしたベンチが体温で温められ、少しずつ体と同化していく。

太一は徐に目をつむって、今日自分の中を駆け巡った切実な想いたちの欠けらを一つずつ拾い上げていった。

閉じたまぶたの裏には、色とりどりの星がきらめいている。平泳ぎをしてつかみに行こうとするけれど、なかなかたどり着かない。

眼前にふりかけのように万遍なく散りばめられた星たちは、次第に光度を弱めていき、最初に狙った星だけが残った。

周りの星が全て消えると同時に、遠くにあったはずのその星は手のひらの上に移り、柔らかく太一を照らす。

それは、ほのかなピンクにうっすら藍色の混ざったような星だった。太一は両手でそれを抱きしめ、耳を当ててその声を聞こうとした。美しい女の、明るくて、どこか寂しげな声が聞こえてくるような気がした。

声はひどく小さかったので、太一は必死にそれを聞き取ろうと耳を傾けた。彼女の心の叫びが徐々に大きくなって、星の中で反響していく。

いよいよ、はっきりと聞き取れるというところで、耳をつんざくような雑音が鳴り響き、星は弾けて闇に吸い込まれてしまった。

精神は一瞬にして現実に引き戻され、太一が目を見開くと、向かいの歩道で黒々しい集団が喚いていた。

今日も「決行」が始まったようだ。

涼しげな街並みを嘲笑うかのように熱気を帯びた人ごみが、秩序立った横断歩道を踏み潰しながら流れている。

うごめくプラカードの大群はどこの誰に向けているかもわからないようなメッセージを掲げ、空虚な熱狂の渦の中で呆然と揺らめいていた。

宣伝車の屋根の上に取り付けられた薄汚いスピーカーからは不協和音が毒々しく放たれ、ひび割れた絶叫がバックミュージックに埋れて虚ろに街に霧散していく。

人ごみが整った無秩序を保ちながら一つの生命体のように温度を持って運動するのとは裏腹に、参加する人々の笑顔はどこか力無く、機械仕掛けのように無機質に張り付いていた。

この街で「決行」が行われるようになったのは数年前のことである。

あの日も今日のような、不気味なまでに涼しい晴天だった。八月も半ばだというのに、気温は二十度を下回り、西の方では湿った空気が豪雨となって降り注いで大変な被害を出した。

思い返せば、あの夏は異常気象が目立った年で、六月に季節外れの日照りが続いたと思えば、七月は初夏というのに高地で初雪が降るほど冷え込んだ。

八月に入って気候は落ち着いたが、それでも例年とは比較にならないほど冷涼な夏だった。不安定に変動する気象は少しずつ平穏な日常を蝕んで行った。

「決行」は何の前触れもなく、突然始まった。

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