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【最終話】決行⑻

それからも彩香とは連絡を取り続けた。二人とも普段通り振舞おうとしているけれど、嘘くさいやりとりが続く。お互いがお互いに踏み込めず、うわべだけのメッセージだけが虚しくたまっていく。太一は、以前はどのように接していたのかもうわからなくなっていた。

次第にメッセージを送り合う頻度も減っていき、一ヶ月前には毎日送りあっていたメッセージも、二日に一回、三日に一回とどんどん間隔が広くなっていった。

それでも、太一は彩香に会う約束を取り付けようと必死だった。次会うときは、またあの話をしないといけない。次は取り返しのつかないことになるかもしれなかった。けれど、この嘘にまみれた中身のない毎日には、もう、耐えられなかった。

太一はもはやすがっていた。一度通じたはずの心がたった一つの過ちで塞がれるはずないという、青い妄想が唯一の希望だった。彩香も拒否はしなかった。しかし、彩香の生活はどんどん忙しさを増し、ついに今まで週に一回お互い予定を開けて会っていた日曜日さえも時間が作れないまでになっていた。

そんな中で彩香のフリーな日が一日だけあった。九月の第三日曜日だった。太一はすぐさま約束を取り付け、久しぶりに彩香に会える喜びからなのか、これが最後になるかもしれないという不安からなのかずうっと頭がぼうっとしながら心臓だけがバクバク動き、なんだか自分の体が傀儡のように思えてきて、その日のバイトは少しも手につかなかった。

迎えた当日、太一は約束をすっぽかした。そして、会場の半分がバーの、ステージに五人も上がればいっぱいいっぱいになるような小さなライブハウスで小さなライブをした。

なぜそんなことをしたのか、太一にも分からなかった。ただ、まさしく人生そのものである音楽を捨てて女を選び、その女も失った自分を想像すると、ひどくみじめだった。

そんなみじめな経験はしたくない。その時の太一にはもう音楽しかなかったのだ。音楽を失った自分が、怖かった。もう守る価値なんてない自分を捨てる気概も持てず、太一は逃げるように音楽にすがりついた。

高校生の頃に狭い世界で吐いたいきがった言葉が耳鳴りのようにずっと鳴り響く。「俺は社会の歯車になんてなってやらねえ。一生を音楽に捧げるんだ。」今の太一はそんな青臭いちっぽけなプライドそのものだった。

そのライブの後、太一は昂理駅から独り歩いて帰った。深夜の住宅街はそれ自体一つの音楽のように静謐だった。なんと重厚な音楽だろう。太一はそのあまりの重さに、自分の音楽が押しつぶされてしまうような気がして、どうしても夜から逃げたくなってイヤホンを耳につけ、大好きな音楽を流し、夜道を力の限り駆けた。

駆けても駆けても夜はどこまでも夜だった。人工的な明かりを無機質に灯し続けるコンビニ、あの日から休むことなく動き続ける信号、ほのかなオレンジ色の光が窓から漏れ出て淫靡な物語を彩るマンションの一室。夜にしか現れない風景は、怪しいまでに魅力的で、耳元を彩る大好きな音楽はいつの間にか止まっていた。

走り疲れた太一は、あの日と同じベンチに腰かけた。同じように炭酸を買い、身体に染み込ませる。今瞑想をしたらそのまま眠ってしまう気がして、太一は首を横に振り眠気を紛らわせた。

ぼうっと空を見上げる。今日は新月のようだ。太一を優しく包む柔和な光は今日に限って現れない。ふと視線を下に戻すと、遠くの夜の闇の中に一際濃い漆黒が蠢いている。それが近づいてくるにつれ、太一の耳にはっきりと声が聞こえてきた。

「感情はいらない!感情はいらない!」

「痴漢撲滅!戦争反対!」

「理性は世界を救う!」

粗末なメガホンを通した、ひび割れた声が深夜の住宅街に霧散していく。声は小さな粒子となって、ウイルスのように空気に舞い散り、街全体を、いや、ほし全体を包み込んでいく。遠くで発せられた声は、そよ風に乗って、向かいの歩道に座る太一にの肌にそっと沁みていくような気がした。

それから、太一と彩香が会うことはなかった。メッセージは一週間に一回だけ形式的に送るだけになった。二人の間に生まれた溝は、クレバスのように中から大きく広がってもう戻らないところまで来ていた。そうして、永遠に続くと思われた日常は、突如として儚く散った。

太一は、その日朝から曲を書いていた。結局太一の中に想いが戻ることはなく、今は締め切りを守るべく惰性で曲めいたなにかを組み立てているだけだった。

太一は冷蔵庫から冷えたコーヒーを取り出し、ピカピカに磨かれたカップに注いだ。朝食のフレンチトーストとスクランブルエッグに、コーヒーはよく合う。コーヒーが買ったばかりの白シャツにこぼれないように、カップをそっとコースターの上に置くと、部屋の隅の埃が目についた。

クローゼットの中の、きちんと整頓された収納ボックスからハンディ掃除機を取り出し、埃を吸い取る。床は以前の輝きを取り戻し、ピカピカに輝いていた。太一は掃除機をしまうと、朝食しか置かれていない作業机にノートパソコンを開いて、編曲をはじめた。

編曲も終盤に差し掛かったとき、ピロンとカバンの中のスマートホンが鳴った。スマホをカバンから取り出し、通知をみる。彩香からだった。メッセージを開くと一言、「さよなら。」と書いてあった。

さよなら。たった五文字、その言葉が飲み込めなかった。諦めて、自ら手放したつもりでいたのに、結局自分は彩香に依存したままだった。心の奥底では、また、あの日のように笑えるだろうと甘い期待を抱いていたらしい。その証拠に、太一の頬は気づかぬ間にしっとりと濡れていた。

涙が一粒一粒流れるにつれ、自分を支えていた、自分でも気づかない何かがとくとくと流れ落ちていく。指は勝手にスタンプを送っていた。極限までデフォルメされた落書きのようなクマが大きなプレートを持って首をかしげるスタンプだった。プレートには五歳児が書いたようなブレブレの字で「どうして?」とだけ書いてあった。

すぐに既読がつく。返信はすでに答えが決まっていたかのように、たった五秒で返ってきた。

「合理的じゃないからよ。」

太一は悟った。ああ、彩香は取り込まれてしまったのだと。

隠しきれないほど純粋な感情を持っている健気な新山彩香という人間は、殺されたのだ。「決行」が、「世界の意志」が、彼女を内側から侵食して、精神を無残に焼き切ってしまったのだ。

途端に、太一の中に激しい憎悪が沸き起こった。潰してやる。「決行」を潰してやる。「世界の意志」を「ほし」を相手にしたって構わない。たとえ、命にかえてでも潰してやる。激情に支配された身体は今にも「決行」殲滅に向けて動き出しそうだった。

その瞬間、彩香と最後に会ったあのカフェの日の出来事が突然フラッシュバックして頭の中を駆け巡った。

そうだ。彩香は、あのとき確かに「決行」を知らなかったと言った。遭遇したこともなければ、主張すらも知らないと言っていた。

とすれば、彩香に「決行」を教えたのは誰だ?彩香を「決行」に引き込んだのは、俺じゃないのか?あの日、つまらないプライドをかなぐり捨てて、しらばっくれず、現実から目を背けず、真面目に悩みを打ち明けていたら、彩香は、あの純朴な少女は、死なずに済んだのではないか?彩香を殺した本当の犯人は、誰だ?

俺だ。他でもない、俺が彩香を殺したんだ。

頭がかち割れそうな衝撃が太一の脳天を貫いた。さっきまでマグマのように煮えたぎっていた憎悪が、すうっと冷え込み、この世のものとは思えないほどの怒りや後悔、哀しみが身体中を駆け巡った。

あのとき悩みを打ち明けなかったのも、あのとき追いかけて議論を続けなかったのも、あのとき約束をすっぽかしたのも、すべてこの小さなプライドのせいだ。こんな価値のない矮小な人間の、しょうもなく小さいプライドが、美しく、聡明で、未来が明るく、生きる価値のある、そして何よりも大事な人の人生を奪ってしまった。

情けなさ、不甲斐なさ、やるせなさがとめどなく目から流れ出る。いつまでも、いつまでも身体中に反響し続ける行き場のない想いを、赤色のマーカーで紙に何度も何度も書きなぐるけれど、想いはぐちゃぐちゃのまま紙面に溶けて消えて行く。太一は五線譜の上に残った、すべての想いの痕跡を握りつぶし、ノートパソコンに開かれたハリボテみたいな曲をただ無心に、締切に間に合うように繕い続けた。

(*)

あれから何日が経っただろう。太一は、もう、何も分からなかった。ふと気付いた時には、訳も分からず、ただひたすら走っていた。汗の滴る耳元に、彼の人生を彩っていた音楽はもうない。

ふらりふらりと、肉体の思うがまま、また、太一はあのベンチに座る。いつの間にか手には炭酸が握られていたけれど、それをぐいと飲み干しても、何も味がしなかった。

雨が、火照った太一の身体を冷やす。高鳴っていた鼓動はゆっくりと、ゆっくりと平常に戻っていく。すると、遠くから粗末なメガホンを通した、ひび割れた声がうっすら聞こえてきた。黒々とした集団が、信じられないほどの笑顔で行進している。

向こう側の歩道にひしめく漆黒を太一はじっと見つめた。列の後ろのほうに、懐かしいような、それでいて初めて会ったような女が満面の笑みで一際声を張り上げている。その女と一瞬目があった。丸々とした、澄んだ目だった。昔、あんなに激しく動いていた太一の心臓は、変わらず、一定のリズムを刻み続けている。

信号機は今日も休むことなく動き続けていた。黒Tに黒いスキニーパンツを履いた虚ろな男は、ふらつきながらベンチから立ち上がり、慣れた手つきで炭酸のペットボトルを白いゴミ箱に投げ入れた。信号機が赤から青に変わった。男は、自分がどこにいくかも分からず、ただ身体の赴くままに横断歩道を渡った。

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