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手紙は憶えている 感想

しばらく前に「手紙は憶えている」という映画を観た。重たい映画だが非常によくできていて面白い作品だった。

アウシュヴィッツの生存者である認知症の主人公が同じく生存者である脚が不自由な友人の手を借りて家族を殺したナチスの元親衛隊に復讐する、という話で、認知症の主人公が忘れてしまわぬよう友人が手紙を書いて持たせてやるところでタイトルが回収されている。

主人公は眠るなどして意識を失うたび、それまでのことを忘れてしまう。脚が悪い友人に代わり、4人にまで絞った、今は偽名で暮らしている「オットー・ヴァリッシュ」という男を探し出して殺そうとする。

結論から述べると、この「オットー・ヴァリッシュ」という男は主人公本人だ。アウシュヴィッツから逃げのびる際に囚人に紛れるため腕に管理番号を刻んでいたのだが、認知症で記憶を失くしたことにより自らを「アウシュヴィッツの生存者」だと思い込んでしまっていた。友人はそれを知っていて、主人公に自らの行いの尻拭いをさせるため利用したのだった。すべてが終わり最後に友人の机の上にある「オットー・ヴァリッシュ」の写真と何かが記された手紙が映り物語は終わる。ここでもタイトルの「手紙は憶えている」が回収されている。

疑わしい4人それぞれに会いに行き、同士とわかったり(思い込みだが)、本人がすでに死亡していて息子に話を聞くことになったりとそれなりの距離を移動させられるので、観ていた私は次第に「いくら復讐のためとはいえ、主人公だけを危険に晒すのはどうなんだろうか」と違和感を覚えたのだが、その違和感が最後、主人公が復讐したい男本人だったことがわかったとき靄が晴れるようにすっきりするのが気持ちいい。と、同時に友人の計画の緻密さに恨みの深さを思った。

話を聞いた息子は根っからの差別主義者で主人公を「親父の知り合い(ナチスの親衛隊)」だと思っているうちは親切であれやこれやと話しかけてくるのだが、主人公が「アウシュヴィッツの生存者」だとわかると途端に悪辣に罵倒し暴力まで振るい始める。死の恐怖を感じて失禁した主人公をさらに詰る息子から逃れるため、主人公は息子を射殺する。

差別主義者が痛い目に遭う・最悪死ぬ、というのは最近の映画の流れとしてひとつある気がする。差別を描く場合、こうやって「してはいけないことである」ところまで描くのがクリエイターとしての責任だと思う。かつては主人公もこの息子のように誰かを罵倒し、殴りつけ、嘲笑し、踏み躙った。その酷さを主人公も身をもって知ることとなったのはまさに自業自得といった感じだ。

最後の疑わしい男に会いに行き、主人公は事実を知ることになる。疑わしい男の娘・孫、自らを迎えに来た息子の前で主人公は男を殺し、自らも命を絶った。男の腕に刻まれた管理番号が主人公の腕に刻まれた管理番号とひとつ違いで、男の話が事実だとわかってしまったからだ。逃げのびるために刻まれたことがわかるまでまさにその管理番号によって「アウシュヴィッツの生存者」だと思い込まされていた私は主人公と一緒に驚いてしまった。本当によくできていた。

この映画のもうひとつすごいところは、カナダ・ドイツ映画だというところだ。歴史的惨劇を真正面から受け止め批判的に描くことは並大抵の痛みではないだろう。だが逃げずに分析し反省し後世に伝えることで二度と繰り返さない、という強い意志を示したのが“ドイツ”という国なのだなと思った。世界や次代に対する責任感があり憧れの国だ。日本でこういう作品は寡聞にして知らない。

面白い作品を観たあと、いろいろと考えるのが好きだ。しばらく脳内が忙しく興奮を処理しようとしている感じがする。今は観に行けないのが残念だが、閉まる前にミッドサマーを観に行けたのはよかったな。あれもずっと考えてしまったし、誰かの感想や解説を読むことで深まってとても面白かった。ネットの海は広く、「ルーン文字に詳しい」という特殊技能持ちの方がいたのが一番面白かった。一体どこで学ぶのだろうか。


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