かなり遠くを見るように【真実の足場】

この世界に私は誕生した……と思っている間は、多くの人がこの世界の中に自分の居場所であるとか、望みであるとか、生きる目的のようなものを探し求めるんじゃないだろうか。
そして、どうも自分はそれに失敗したようだ、本当の本当にはこの世界の中に自分の満足を何も見出せなかったと正直に気づいた場合、どうしたらいいのだろうか。
自分の中の、そうした冴え冴えとした自覚を打ち消せるものでもない。

たくさんの、見せかけの、「ほしいもの」を手に入れようとしたが、どれも「それ」ではなかったと気づいてしまった場合、どうしたらいいのか。
絶望しながら生きるのか、生とはこういうものだとあきらめて「楽しもう」と刹那的な楽しみに身を浸すのか。本心を極力忘れるようにして。

あきらめが優れて悪い場合、「別のところに目を向けられるんじゃないか」という粘り強い方向に導かれる。
自分が見つめている表層の、その奥に、別の何かがある。そう気づく。
気づくというより、知っていた。
どうしても自分はそれを知りたい。もはや色々なものをかなぐり捨ててでもそちらが欲しい。
恐れや執着が逆転し、「真実とひとつになりたい」気持ちがすべてを上回るとき、やっと真実は「隠してもいなかったその姿」を開示する。
別に隠れてなんかいなかったよ、あなた自身が隠していたんだよ、と笑いながら。

この世界の中だけの存在に限定されるくらいなら、存在しない方がましだ。
Carpe diem.
その意味ですら、色合いが変わってくる。
立体的に、多次元的に「ここ」に在るのなら。
「今ここ」だって、果てしない厚みと途方もない無限を含む。
上っ面の「今ここ」に終始する視点は、簡単に剥がせる舞台装置。
単一の中身に驚いて、笑う。

その奥に何がある?
いつも遠くを見るように。
かなり遠くを見るように。
この世界の目線を通過して、そのもっと奥にある私の目的を見る。

この世界の表層上の満足が自分を満たさなかったのなら、もっと向こうにある目的を見つめればいい。
どこまでもやり甲斐のあるその目的が私を牽引する。
ここに帰属しない自分が「ここにも」浸透させている目的だけを見つめるなら、すべてはこの世をはるかに凌駕する目的の「プロセス」になる。
終わりはない。

そして、そのようにしてしか私はここを通過できそうにないのだという認識が、今ではほがらかな心の躍動となり、「ぶれない足場」として私に真実のステップを踏ませてくれるのだ。


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