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「ロールモデル」になれない私たち

「憧れの人」とか、「この人になりたい」と思える人って、いますか?
もちろん芸能人とかの「憧れ」は私もいるのですが、私の住む世界で「憧れの人」ってあんまりいないんです。尊敬する人はたっくさんいますが、そのまんま「こうなりたい」と思う人って、いない。

社会人になってから「ロールモデル」という言葉をよく耳にするようになりました。「ロールモデルになりなさい」「今後の女性活躍の流れは、ロールモデルとなるあなたたちにかかってるのよ!」とかね。1対1でも、講演・研修みたいな場でも、100回くらい言われた気がする。そろそろ、「ロールモデルアレルギー」になりそう。そもそも、ロールモデルって何さ。。。

これだけ時代も変わって、それぞれの価値観もあって。ロールモデルを見つける、なんて、そんなに簡単なことじゃない。ロールモデルになること、も、そんなに簡単なことじゃない。産まれ方も育ち方も、教育も、生活スタイルも、、いろんなものが似通っていれば、「こうなりたい」と、同じ方向を向ける人が現れてもおかしくないのかもしれない。でも、そんなに画一的な人間には、仕上がっていない。私も、周りも。似てるところもあれば、これは違う、と感じることもある。みんなきっとそうなのでは。。

ときどき、師匠と弟子、という関係に強烈に憧れる時があります。落語や漫才、芸術の世界とか。衣食住を共にしながら、師匠の「スタイル」をそのまんま学んでいく。そこには、これまでの自分の生活や環境を全て投げ打ってでも、師匠の言うこと、やること、食べるもの、、、何から何まで吸収したい、という意思がある。芸事の基礎を師匠から学び、その後独り立ちしても、苦しいときやわからなくなったとき、師匠に相談しに行く。師匠が亡くなっても、「師匠だったらこんなとき、何て言うだろうか」と想いを馳せ、自分を奮い立たせる。。。ドラマの見過ぎでしょうか?笑 でも、そんな関係を、ものすごく羨ましく思ってしまうのです。

きっと、そういう師匠のような存在がいれば、自分というものが揺らがずに済むんじゃないかなぁと感じたからだと思います。生き方も、技術も、考え方も。いろいろなものに、「師匠」という絶対的な軸があって、向き合うことができる。これは、きっと難しいことでもあるのだろうけれど、すごく太い、精神的な支柱になる。

私にはそういう存在はいないし、自分が何かを決めなければならないとき、考えるとき、悩むとき、、、あらゆるときに、いちいち自分と向き合って答えを出さなければならないことが、とにかく面倒だったんだと思います。あぁ、師匠みたいな人がいれば、相談できるのになぁ、、、とぼんやり思ったりしていました。ザ・他力本願。

でも最近はなんかもう、いい意味で、諦めがつきました。私の憧れの人、ロールモデルとなるような人、は、きっとこの世にはいない。これまでもこれからも、あらわれない。「こうしたほうがいいよ」という正解をくれる人もきっといない。まったく同じ価値観を持った人も、いない。だから結局は、やっぱりちゃんと、最初から最後まで、自分の胸に手を当てながら、小さなことから大きなことまで、自分で決めていくんだろうと思う。

だから、自分にはロールモデルはいらないし、自分はロールモデルにも、なれない。「ロールモデル」なんて、もうきっと、誰もなれないし、なろうともしていないんじゃないかなぁ。一つの価値観の箱の中で完結していく物語は、もう終わってしまった気がする。誰も、ロールモデルなんて、なれなくていいし、ならなくていい。と、思う。頑張って誰かの見本になったって、その通りに育つ人はいない。自分にとっての幸せ、を勝手に追求したときに、結果として、誰かにとって何かのヒントになればラッキー!ハッピー!くらいのノリで、生きていきたいなぁ。「ロールモデルの呪い」に縛られている、すべてのひとに届け~!

どうでもいいんだけど、この間、バラエティー番組「水曜日のダウンタウン」で「”いい意味で”をつければどんな悪口でも怒られない説」というのを観てから、「いい意味で」という言葉を使うと、笑ってまう。こんなに便利で、くだらない言葉。笑 「いい意味で」という言葉を使わなくても、「いい意味で言っているんだ」ということが伝わるような表現が出来るようになりたいなぁ、と思ったのでしたぁ。言葉の表現力、つけたい。

あー、ピクニックとか行きたいな~。花粉やばい~。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。