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『痛みと悼み』 四

菰田社長の倉庫を見たのは、その午後遅い、鶴見警察署を出て帰ってきた中野のアパートの近くだった。今までアパートと駅の往復で気付かなかったのに、めぐむが人生で最後の涙を流すはずだったその日、歩幅がゆっくりだったのか、普段は通り過ぎている狭い道路脇に並んだ3つの倉庫の真ん中にそれはあった。天井の高い三角屋根の奥に長く広がった倉庫で、普段は灰色の一枚のスチールシャッターが降りていたと思う。そのシャッターが半分開いて、倉庫の中の車両と雑然と置かれた洗浄機などが外の日差しと対照的な暗い中にぼんやりと見える。中からモーターの激しく回転する高い音が聞こえる。

 めぐむは、シャッターの開いた中に目を凝らす。雑然と置かれた棚や物置のぼんやりとしたシルエットの間に、何か動く黒い小さな塊が見える。その不規則な時々けいれんする小さなシルエットに、意味も無く2、3歩近づく。ぼんやりとしていた暗がりに目が慣れて、黒く見えた塊が白っぽい服で暗がりで灰色に見えたことと、それが小さな人だったことがようやく分かる。

 男性が、グレーの作業着の上からフードの付いた白い防護服を着た頭だけを出して、しゃがみこんで洗浄機を回している。めぐむは、何の気も無しに、男性が何をしているのだろうと半開きのシャッターの手前まで静かに近づく。防護服から出た、頭頂部を中心に髪の薄くなった五分刈りの頭が後ろから見える。小太りで小柄で、めぐむに背を向けて中腰になって大きなモーター音をさせては懸命にスチール板にノズルから水を噴射して洗い流している。昆虫採集をする子供のように夢中の背中がスチール板を中心に円を書くように右に左に半身を向くたびにちらりと見える。そのたびに垣間見える横顔からは、めぐむの父親くらいの年齢−めぐむは父の顔をもうぼんやりとしか思い出せない、母との葛藤の原因と反比例してその記憶はどんどん薄くなっていった−だった。160センチのめぐむと変わらないくらいの身長のその男性が、洗浄機のノズルを両手で持って中腰で振り回している姿が健気で、めぐむは自分でも意識しないまま久しぶりに微笑む。目の高さくらいまで上げられた半開きのシャッターの少し見上げたところに、白い汚れた紙にマジックペンで大きく「アルバイト募集」と書かれた文字が目に入る。紙はビニールで上からカバーがされているが、貼られてから随分経っているようで表面のビニールも薄く茶色に変色し、所々小さく破れている。何よりも、その紙の下のところに書かれている、「特殊清掃 誠実社」という字に目が惹きつけられる。特殊な清掃。不思議な響きと、目の前のかがみ込んで一心にノズルを振り回す中年男性の姿に、めぐむは、シャッターを潜って倉庫の中に入る。すると中はさらに一段階暗くなり、表の日差しとは違って少しひんやりする。ゆっくりと男性に近づくと、モーター音も荒々しい高い音がさらに響く。

 「あのう。」

 めぐむは、後ろから男性に声をかけた。しかし、洗浄機の音でめぐむの声は、本当に口から出たのかどうかさえ自分でも分からないほど瞬間にかき消される。今度は、お腹に力を入れて、同じ言葉をもっと大きな声で出してみる。

 「あのう。」

 ちょうど、男性が洗浄機を止めて、顔を上げたときだった、ギュウンというモーターが切れる音とめぐむの思いのほか大きな声が男性に挑みかかるように降りかかるのが同時となって、男性は、ピクリとして振り返り、その声が聞こえたのとそこに水色のワンピースを来ためぐむがいることに驚いたのか身を震わせて、洗浄機のノズルをその場に落とす。

 「うあ。」

 男性が濡れた床にお尻をついてめぐむを仰ぎ見るようにへたり込む。その顔は、まるで魔法の森の中で会いたくない魔女に出会ったような、眉尻と頬が両方上に向かって引っ張られた、不思議な表情をしていた。

 「すいません。びっくりさせて。あの、表の張り紙。」