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高田純次の「純」文学『最後の適当日記(仮)』

不覚にも最近知ったのですが、高田純次さんの書籍が1月に刊行されておりました。
タイトルは「最後の適当日記(仮)」
16年前に出した「適当日記」は紙と電子で合計20万部を超えるベストセラーに。
私も勿論読みました。
私、普段は書籍は圧倒的に紙派なのですが、この本に関しては、何故か「紙書籍で購入するまでもない」という態度で接することこそが礼儀?という感覚に見舞われ、人生初電子書籍購入をした覚えがあります。
読まれた方も多いと思いますが、内容はめちゃ面白いです。
電車の中で読んでいると危ないくらい。
でも、現在一つも内容を覚えておりません。
逆にそれこそ、この本との正しい関係ではないか、と。
ただ、面白かった!という感覚は確実に心に残っています。
そして、今回の著作。
私、まだ読んでいません。
たまたまネットで拾った記事しか読んでいません。
しかし、その状態で何か書くことこそ、この本に対する正しい?接し方と思い、適当に書きます。

既存のジャンルを超越する「純」文学

インタビューによると、内容(というか高田純次さんの発言全般)の9割5分はウソだそうです。
そして、たまに本当のこともあるんだけど、それもウソだと思われちゃうと嘆いて?います。
が、そもそもこれ自体が嘘かもしれません。
他のインタビューでは、「9割ウソ」と言っていましたから、もう数字も適当。
この本、一般的に考えるとジャンルは「エッセイ」なのかと思いますが、普通、「エッセイ」って「ノンフィクション」なのですよ。
でもここには「ウソ」も書かれている。
だからと言って全てが創られた「フィクション」でもない。
もうこれは新たなジャンル、高田さんしか書けない「純」文学です。
この「純」文学が成立するのは、普段の高田さんのキャラクターというか存在感と完全に一致するから。
もうこれは、作家の人生、存在そのものをかけた作品と言っても過言ではないですね。

「適当」は最高の免罪符

この言葉がインタビューの中の小見出しにありました。
きっと本文のどこかに書かれているのでしょう、多分、ですが。
でも、これってすごく、今の時代、噛み締めるべき言葉じゃないかと思います。
「適当」って漢字を見るとわかりますが、「適して当たっている」という意味なんです。
近い言葉に「いいかげん」がありますが、こちらも漢字で書くと「良い加減」
どちらも、「的を得ている」というか、ある意味「正解である」という状態を指している言葉なのですね。
だから、最近よく言われる「コンプライアンスが厳しいから、適当なことが出来ない、いいかげんなことが出来ない」というのは、実は違うのですね。強引な言い方かもしれませんが、「適当、良い加減にやらないとコンプライアンスが守れないぞ」なのです。
これは私なりの解釈ですが、コンプライアンスもそれ自体を守ることが目的ではなく、誰かの心を守るルールというか基準なのだと思います。

※「法令順守」=企業倫理や社会規範などに従い、公正・公平に業務を行うという意味は理解したうえでの私見です。

人はなかなか、他人の気持ちや立場を理解できないことも多いから、知らず知らずのうちに人を傷つけてしまうことがある。
それを防ぐために共通意識を共有するための施策の一つ。
逆を返すと、これも強引な言い方ですが、当事者間において赦されているのであれば良いわけです、何でも。
そして、その基準は当事者間それぞれなのだと思います。
だから一番大切なのは、相手のことを思う心だな、と。
そんな心でもって「適当」で「良い加減」を探っていく。
それが大切なスタンスではないかと、まだ一文字も読んでいない「純」文学の新作の記事だけ読んで思うのです。

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