見出し画像

第三者の眼 で読む

優れた編集者とはどういう編集者を指すのか、という問いかけをコメントにて質問させていただいき、racocoさんよりコメントのお返事として1本の記事を書いていただくという非常にうれしいことが先日起こりました。

racocoさん。このたびは有意義で魅力的な記事をご提供いただき誠にありがとうございました!

さて。

きょうは上記にちなんで”第三者の眼”についてお話させていただけたらと思います。ここでいう第三者の眼というのはすべての文章作成における第三者の眼ことを指します。

第三者の眼

まず、第三者の眼ですが、これを辞書で引くと「当事者以外の者」または「その事柄に直接関係のない者」と出てきます。

つまり、文章作成における第三者の眼とは、執筆者とは別の視点を持ったひとの目のことをいいます。

以前に少しお話させていただいたと思いますが、原稿(とくに初稿)は熱量が重要です。そこに書き手の想いが込められていない文章というのは魂の抜けた素っ気ない、スカスカの文章と言わざるを得ません。

血肉で書く。

これは太宰治の言葉の一部ですが、猫目はなにかを執筆するとき、この言葉を指針にさせていただいています。

ちょっと真剣になりまして、真面目なことをいうと、たとえ一文書くごとに自分の寿命が縮んでも文章を綴りたいと思っています。本気です。

で、これくらいの熱量をこめて書いた原稿を今度はつぎの段階である「推敲」によって磨きあげていきます。

推敲についても少し前に触れさせていただきましたが、推敲をするときの姿勢は執筆時とは逆だと考えています。

推敲をおこなう際は、どちらかというと冷静な頭脳が必要になってきます。執筆時は熱量を注いで書き、推敲時は冷静に文章を見つめなおす。この2つをおこなうための脳の使いかたはまるで正反対です。

いつだか、「正論は正義じゃないから」とおっしゃられたSさんも「頭の切り替えこそが重要だよね」と口にしておられましたが、まさにその通り。

とくに文章においては1つの原稿で複数の頭の使いかたをしなくてはいけません。これってけっこう疲れますし、訓練が必要だと思うんです。

そこで猫目はまず2人の人物を頭のなかにつくりあげました。執筆時の猫目と、推敲時の読者Nさんです。そうして棲みわけることで、スムーズに原稿と向きあうことができると思いました。

ところが

これがなかなか難しい。頭では理解していても、すぐには切り替えられないのが事実です。たとえば某有名作家さんは、執筆が完了してから最低でも2週間は原稿を”ほったらかし”にするといいます。

いったん原稿から離れ、日常生活を送り、2週間後(ないし数か月後)にふたたび自分の書いた原稿に目をとおしていくというのです。2週間後は読者としてフラットな視線で原稿を読むというわけですね。

このいったん忘れる作業こそが、結果的に質の高い原稿を完成させるために必要なことであって、なくてはならない期間だと思うのです。

小説の場合、ほとんどまちがいなくこの期間が必要になってきます。しかし媒体とクライアントさんによっては、できるだけ早く納品してほしい(あるいは非常にさし迫った納期を)とご要望されることがあります。

その場合、ひとまず2週間は執筆内容を忘却して、そこから推敲を……なんて悠長なことは言っていられません。WEB記事の場合とくにこの傾向が顕著です。

1日納品などはざらにあります。

つまり、瞬時に執筆時の脳から推敲時の脳へ切り替えることが要求されるわけです。なので日ごろから第三者の眼を手にいれておくことは重要なのですね。じゃないと、すぐにヘトヘトにくたばってしまいます。

じっさい、はじめのころは脳の駆使で(低血糖で)原稿が完成したときには決まって手が震えていました。ご存知のとおり脳のエネルギー源はブドウ糖です。それも約20パーセントも消費するのですから、名立たる天才たちが甘いものを手放せなかったのも肯けます。

猫目は特段甘いものが好きなわけではないですが(ある時期は無理にチョコレートを食べていたくらい)、脳に働いてもらいたいときには極力ブドウ糖を摂取するようにしています。

健康に悪いんじゃないか、といわれますが、そのぶん意識して思考を働かせるようにしています。甘いものを食べたら脳を働かせる。反対に脳を働かせないときには甘いものを摂取することを控えています。

肉体としてのカラダはどちらかというとタンパク質とビタミン(細胞の修復に役立つ)を欲していますので。

第三者の眼 他人version

ここまで、文章を書いたあとの推敲でいかに第三者の眼が重要になってくるのかということをお話させていただきました。

ここからは、ホンモノの第三者の眼についてサクッとお話できたらと思います。ホンモノのというと一寸おかしなニュアンスに聞こえますが、意味はそのままでじっさいに存在する人物の目(他人の目)のことを指します。

つまり、執筆者以外の目のことですね。そこには編集者であったり、そのほか一般の読者が含まれます。

とくにその道(その媒体)に精通したひとの目をお借りするのは重要なことで、こちらもはやり作品の質に深く関わってきます。

執筆者の自分では(あるいは推敲時の自分ですら)気づけなかった盲点や意見を聴くことができるのだから、これほど有難いことはありません。

いくら執筆時の自分(第二の自分とでもいいましょうか)を得ることができたとしても、そこには限界があります。理由は簡単で、意識的にも無意識的にも執筆者の生活やその環境の範囲内の視点を中心に思考が形成されているからです。

自分の知らない新たな自分を友人によって発見させられたなど、みなさんも身に覚えがあるかもしれません。

第三者の眼はときに驚くべき発見を執筆者に提供してくれます。だからこそ、文章を書いてだれかに読んでもらうことが大切なのです。

先日、猫目は前に勤務していた図書館のある目録さんにコンタクトを取りました。めちゃくちゃ緊張してメッセージを送ったのですが(文章のきれいなひとへメッセージを送るのはLINEを含めド緊張します。言葉選びが慎重になるからですかね)、よかった!

しっかりお返事をいただくことができました!

「小説を書いているので、よかったらそれを読んでほしい」といった内容にたいして相手の方からは「私でよければお受けします」とのお返事。うれしすぎて何度も読み返してしまいました。

と同時に、その瞬間から意識が変わりました。

そうなんです。他者による第三者の眼を得たことによるメリットは、もちろん自分では気づけない点を発見してもらえることにあるのですが、それ以上に意識が変わることにあります。

そんなわけで猫目はいま、内心けっこう焦っていますし、とても真剣です。いつも以上に真剣に原稿と向きあっています。

そこには「やばい、あのひとの目はごまかせない」といった心境が孕まれています。この感覚を持つことが本当に大切なことなのだと思います。

おかげさまで

「これでいいかな」と半ば納得していた箇所がことごとく「ほんとうにこれでいいのだろうか?」「これが最善なのだろうか?」との疑問へ変わり、果ては一行一行を血まなこになって吟味している次第です。

この姿勢を持てることが心の底からうれしいです。このチャンスを逃すまいと必死になって取り組んでいます。しかも4月中に印刷して5月にはお渡しするお約束をしたので、尚更必死です。

4月、5月。

なんとしても納得のいくカタチまでもっていき、目録さんにお読みいただきたいと思っています。そして、これからも文章を書くことに人生をかけていくつもりですので、みなさま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

本日もさいごまでお付き合いいただきありがとうございました!
また来週の土曜日にお会いできるのをたのしみにしております!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?