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”自由を得たいという内的な欲望のほかに、おそらく服従を求める本能的な欲求がありはしないだろうか?” E・フロム

【フロム著 自由からの逃走】P13
”自由を得たいという内的な欲望のほかに、おそらく服従を求める本能的な欲求がありはしないだろうか?”

この命題に対して、私はあると思う。
なぜなら決断を下すことは不安であり、孤独を感じる行為だからである。
『自由』とは本質的に無数の選択肢を与えられ、その中から常に自分の行動を決定することを強いられる状態である。自由の度合いが大きくなればなるほど選択肢が与えられる。言い換えると、自分にとって最適な選択肢を選ぶ機会が与えられる。

上記の状態について、フロムは『他人から切り離され、孤独である』と表現する。自由であればあるほど、孤独になるということである。フロムは人間が精神的に他人とつながりを保ちたいという欲求は生理欲求よりも強く、人は孤独から逃れるためなら、何でもするという。このため、社会的が分断された状態では個人は自由であるが孤独であるため、人は進んで自由を捨て去り、より大きな価値に服従することがある。これがファシズムであり、第二次世界大戦中にドイツ、イタリア、日本で見られた社会的な特徴であった。


私はこのフロムの主張を違った角度からも表現したい。
自由であるということは、常に自分で選ばなければいけないということである。何かを選ぶということ行為は、選んだ選択肢以外をすべて捨てるということである。選んだ選択により引き起こされた現実が辛くても、自分で受け入れなければならない。捨てた選択肢の中により良いものがあったと後でわかっても、辛い現実を受け入れなければいけない。

辛い現実を他人のせいにして、現実逃避ができればどんなに楽なことか。しかし、自由であれば、自分の選択により引き起こされた現実を自分で引き受けなければならない。

このように常に選択を迫られる状態に耐えられないために、他人に判断をゆだねるというのは魅力的な選択肢であると思う。自分の過去を見ても、選択の苦しみから逃れるために、他人に判断を任せる、社会の基準に判断を合わせたことがある。

自由は魅力的な状態でもあるが、同時に苦しい状態でもある。
このため、人は自由を得たいという欲望のほかに服従を求める本能的な欲求があるということに納得できる。

以上

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