19/09/2020:『The Way You Look Tonight』

石畳の道を川の方へ向かって下流べく、急な斜面を右へ左へ折り曲がりながら進んでいる。夕食時、家の明かりは街灯と一緒に黄色く道を照らしていた。

「こんな急な坂に建っている家って中はしっかり水平を保てているのかしら。」

彼女は左右を見ながら呟いた。

「だってほら、見てよ。こんなに差があるのよ。」

と、僕の手を引っ張って脇へと寄る。白を基調にした瀟洒な玄関。坂の下側の方は水平にバランスを取るためか、かなり埋め立てられている。隣のガレージは、中こそ車が真っ直ぐにに停められるようになっているが、入口のところは斜めのままだった。

「私は最初から水平なところがいいけど。」

下っていく分、目の前に聳えるように脚を渡した鉄橋がぐんぐんと大きく見えてきた。今さっき渡ってきた橋だ。上が歩行者とトラム、下が車と上下二つの道が川を挟んで岸同士を結んでいる。

黒い川が岸辺の遊歩道に照らされて、ゆらゆらと揺れている。大きな樽を積んだ簡単なボートが何艘も停まっていて、それは山の方からワインを運んでくるためのものらしい。ここ一帯はそのワインを熟成させるための倉庫がいくつもあって、だからだろうか、街並みも一緒になって歳を重ねてきたかのように、どこかしっとりとした空気感がある。

「あ、もうすぐそこだ。」

と、彼女が走り出した。少し遅れて追いつくと、坂は終わっていて、広い遊歩道沿いにたくさんのレストランが並んでいる。

海からの風も少し吹いてきていて、肌寒い。対岸も同じように斜面に沿って建物が密集していて、真っ暗な川と空を黄色く明かりが示していた。

僕らは通りに沿って歩き出す。

少し寒いくらいがちょうどよく感じた。

                 ・・・

この旅行とは関係ないけど、僕のとって彼女の思考はとても不思議で、それは矛盾と滅裂を孕むものだった。例えばそれは以下のようなものである。

                 ・・・

「ていねいな暮らしに異存はないけれど、やりすぎると生活が窮屈に私たちを縛りつけることになるわ。だから、私はバランスを取るの。」

そう言いながら夜中にお菓子をぼりぼりと美味しそうに頬張る彼女を見て、僕は何も言えずに白湯を飲んでいた。生活スタイルは人それぞれだが、彼女の言うバランスが具体的に何を指しているのかも見えてこない。

「その、夜ご飯を食べた後に、そうやってたくさんお菓子を食べるのもバランスなの?」

「そう。それだけストレスが溜まってるってことだからね。」

「でも、次の日の胃もたれや、お肌のニキビはいいの?」

よく彼女はそれらについて嘆いていたから聞いてみた。

「いいのよ。細かいわね。心のバランスも大切でしょ。」

だけど、胃の調子が悪かったり、肌が荒れてしまったり、そういうことは心のバランスを崩さないのだろうか。人間は皆、矛盾を抱えて生きていく存在だとは思うけれど、僕はどこか納得できなかった。

だけど、とても美味しそうにお菓子を食べながらテレビを見ている彼女は、本当に幸せな顔をしていて、やっぱりそれを見ている僕も同じように幸せな気分になった。

                 ・・・

そして、次の日の朝、やっぱり彼女は胃もたれで朝ごはんを食べられなかったし、出勤した後に送られてきたLINEにはアゴ下に吹き出物ができてしまったと嘆く内容だった。

僕は、

「ほら、言ったじゃん。」

と、心の中でつぶやいた。

                 ・・・

目星をつけていたレストランは観光客で賑わっていて、テラス席もほぼほぼ満席だった。一生懸命飲み食いしていると寒さも感じないのだろうか、みんな薄着のままでいて、「寒くないのかね」と二人てくすくす笑った。

「ねぇ、あそこにも看板出てるわよ?」

と、言って彼女が指差したのは、その満席のレストランの脇にある小さな食堂のようなお店だった。マストをそのまま庇にしたのか、使い古した生地感に外装もどこか時代を遡ったような装いだった。

「行ってみましょうよ。きっと美味しいわよ。」

ガイドブックを見てみても載っていない。大丈夫だろうか。

「すみません。二人ですけど。」

と、彼女は日本語でずんずんお店に入っていく。すると、奥から恰幅のいいスキンヘッドのおじさんが出てきた。険しい表情を浮かべている。

「英語のメニューないけど、いいか。」

彼女はきょとんと僕を振り返る。

「はい、もちろん。急にすみません。おいそうな雰囲気だったので思わず。」

と、現地の言葉で返すと、

「なんだ、話せるのか。早く言え。いい席空いてるから来い。」

おじさんは僕らの肩を叩くと、急に笑顔を見せてくれた。

客の入りは半分。年齢層も高めで、耳に入ってくる音の響き的にもきっと地元の人たちだろう。

「ね、正解でしょ。」

彼女は僕を見上げて笑った。

案内される途中、厨房が少し見えた。この国では、地元の人がよく通う店の厨房で女性が活躍していることが多い。悪くないと思った。女性が豪快に作る料理を、男性が繊細にサーブする。見た目は男女ともにふくよかで大きいのだが、僕はその分美味しくご飯が食べられる気がした。

「いらっしゃい。案内してもらってる?」

さっきのおじさんの奥さんだろうか、ふと目が合うと気前よさそうに声をかけてくれた。

席に着くと、質素でこじんまりとした店内ではあるが、しっかりテーブルクロスが敷かれていたし、ナプキンもアイロンがかけられている。

「ワインはサービスするよ、ハウスワインでいいだろ?寒い中来てくれてありがとう。」

そう言うと、彼はすぐにデキャンタいっぱいの赤ワインを持って来てくれた。

「じゃ、ごゆっくり。またいい頃に聞きに来るよ。」

ウィンクをして奥へと戻る。

古い写真が所狭しと飾られていて、この店とこの街とが一緒に存在して来たことを悠然と、しかし優しく僕らに教えてくれていた。

「ねぇ、今日、私お菓子食べてないでしょ?それに、夜も絶対食べない。だから、ここで思いっきり食べない?値段も他のお店と比べたら全然違うんだもの。」

と、彼女がメニューを見ながら目を輝かせている。読めないのに楽しそうだ。

「ねぇ、あそこのテーブルのご夫婦が食べているもの何かしら。美味しそうじゃない。」

彼女は鼻の下を伸ばしながら、ちょっと中腰になった。

すると二人がそれに気付いて、

「美味しいよ。」

という表情を投げかけてくれた。

それを見た彼女は腹を決めたようにして、

「うん、あれは絶対ね。」

と、凛々しい顔をした。

矛盾と滅裂はそこには見えなくて、ただ真っ直ぐで純粋な心の歩みがあった。

「ねぇ、とっても楽しそうだね。」

と、僕は伝えた。すると、

「当たり前じゃない。だってね、今を生きるのよ。今、この今を。でもね、だからと言って、過去を蔑ろにしたり未来を邪険に扱うわけじゃないの。だけど、人間そのどちらも結局は生きられないわけじゃない?だったらさ、今を生きるしかないと思わない?そういうこと。私は、いつも、そういうこと。」

と、強く宣言するかのように言った。

夜中、お菓子を食べている彼女もとても微笑ましいと思ったが、今、目の前で真剣に読めない言語で書かれたメニューを睨みつけている彼女もすごく愛おしく思った。

僕は振り返った。

「すみません、そのお料理、なんて名前でしょうか。」

と、先ほどのご夫婦に声をかけた。

その二人は、ちょっと驚いた顔をして、その後とても丁寧に料理のことを教えてくれた。

「今を生きると言ったけど、こうして未来を少し想像するのも悪くないわよね。」

彼女がそのご夫婦を見ながら呟いた。

僕も同じことを思った時、厨房から楽しそうな笑い声が聞こえた。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

Frank Sinatraで『The Way You Look Tonight』。


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