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人生は、努力よりも実力よりも「運」で決まっている、という話

※ 1年ほど前、とある人気動画配信者が「ホームレスの命はどうでもいい」「生活保護の人が生きてても得しない」という発言から大炎上していたことを受けて、いまさらながら あらためてなぜ生活保護が必要なのか? という話と、そのテーマと切っても切り離せない、人生における「努力」・「実力」・「運」の話を深ぼっていきたいと思います。

まえがき

いちどは「努力すると必ず報われる」とか「こうなったのは努力しない自分のせいだ」という言葉を耳にしたことがあると思うけど、変化の激しい時代において この言葉が実情と合わなくなってきたと感じることが増えた。

たしかに「努力は報われる」と言い切ったほうが努力したくなるし 前向きだし ハッピーエンドな感じがして気持ちがいい。ところがいざ娑婆(シャバ)に出てみると、人生は必ずしもそうなっていない。

小学生のときに同じ授業を聞いて同じ小テストをする。10点満点を取れる子もいれば0点の子がいる。かけっこをして50メートルを10秒で走れる子もいれば、どうがんばっても15秒かかる子もいる。世界的な感染症騒動によって旅行会社や飲食店は大打撃を受けた一方、スーパーやドラッグストアは過去最高益を達成したりしている。それをすべて努力の差と言っていいだろうか。人生の大半とまでは言わないが、多くは「才能」や「環境」、一言で言い換えると「運」の要素で決まっているという話をしていきたい。

なぜこんなことを書こうと思ったかというと、1年ほど前にとある人気動画配信者が「ホームレスの命はどうでもいい」「生活保護の人が生きてても得しない」という言葉を口にしてえらい騒ぎとなっていた。そこでホームレスになった人が悪いわけでも 生活保護をもらっている人が悪いわけでもない という話、そしてそのテーマと切っても切り離せない「運」の話を深ぼることにした。

前提として、努力する意味はちゃんとある

まず最初に「努力する意味はちゃんとある」ということは確認しておきたい。世の中あれもこれもすべて「運」なんてことになったらもう人生なにもやる気が出ないしなにも始まらない。安心して思う存分 努力したほうがいい。

気になる子がいる。勇気を出して好きな子にアプローチする。がんばらないヤツより がんばったヤツのほうが振り向いてもらえるのは明白だ。

ツイッターを同時に始める。1ヶ月に1回ツイートするヤツよりは、1日1回 視聴者に向けてしっかり内容を考えたツイートをし続けたヤツのほうがフォロワーは増える。

資本主義社会において、努力は間違いなくしたほうがいい。学校で習ってきた「努力しなさい」という言葉は間違いない。

ところがその考えが極端になりすぎると今度はこういう考えの人も出てくる。「努力したらいい結果が生まれるということは、落ちぶれていった人たちは努力しなかったせいじゃん。努力してる人が一番えらい。努力しない人はよくないし、悪い結果になっているのも自業自得だよ。」

これについてはどうだろう。

人生の大部分を占める「運」のはなし

それは間違っている。たしかにいい成果を出すためには努力しなければならない。しかしながら忘れないようにしたいのが努力の効果は想像以上に限定的であるということだ。例えば同じクラス、同じ会社、同じ地域、同じ国の中、という同一のプラットフォームの中でしか有効ではない。そして生まれながらにして人によって立てる土俵が違う。

これについてどういうことか詳しく話すと、そもそもどうがんばってもツイッターというツールに辿り着けない人もいる、スマホを持てない人もいる、というのはその一例だ。今でもフィリピンには少年少女が朝から晩までゴミ山に入ってお金になりそうなものを拾って生計を立てている世帯がある。これでも1日に稼げる金額はたったの数百円。ところが日本であればバイトを1時間もすれば1000円とか稼げたりする。そもそもの土俵が違う。それは貧困な家庭で生まれた子が努力していなかったせいだろうか? もちろんそんなはずはない。日本に生まれて学生のうちから自動的にスマホを買い与えてもらえることは、かなり恵まれているということだ。朝 起きてからゴミの山に入る以外のハードな選択しか与えられていない。そもそも挑戦する土俵に立たせてもらえない人がいるのは悲しいことに現実で起きている。人生の大部分が「運」というのはこういうことだ。

自分たち日本人には昔から努力を美徳とした言葉や制度がたくさん伝えられてきた。それは生まれながらにしてゴールへの道がたくさん用意されていて整備されているからこそ はじめて努力の効果が発揮できる。

同様にして、生まれつき肌の色や髪の色、目の色、身長が違う人がいるように、走るのが早い人・遅い人、歌がうまい人・下手な人がいる。手足が不自由な人もいるし、言葉を理解するのに時間がかかる人もいるし、うまくしゃべれない人もいる。働くのが得意な人も下手な人も。

現在の日本においては良くも悪くも実力主義な社会だ。頭がよくて努力できるヤツがけっきょく強い。じゃあ頭が悪くて努力できない人が悪いだろうか? そういうわけではない。そもそも能力というのは他人からの評価だ。時代や環境によって求められる能力は大きく変わる。

もし戦国時代に生まれていたらどうだろう。頭の回転が早くて性格が優しい人よりも、腕っ節が強くて相手の首を躊躇なくとってくるようなサイコパス人材であったほうが重宝されていたかもしれない。そんな時代に生まれたら形勢は逆転している。極端な話、ビルゲイツや孫正義がホームレスになっていた可能性だってある。「すばらしい成果」や「成功」というのは 自分の「実力」「才能」がいまの時代にマッチして初めて生まれる。

そうでなくても もし今なに不自由ない暮らしをしている人が、災害に見舞われて生活ができなくなってしまったら、とつぜん交通事故にあって働けなくなったら、ということを考えると、健康的に毎日の暮らしができている、という時点ですごくすごく尊いことなのだ。もっと言えば、家賃さえ払えば屋根のついた丈夫で安全な家に住める。わざわざ自分で家を建てなくていい。超絶イージーなゲームの中で戦っている。この恵まれた社会システムに乗っているからこそ経済活動や娯楽に目一杯 集中することができる。自分の力で成り上がってきた、という人は厳密にいえば誰もいない。気付かぬうちにいろんな人が作ってきた基盤に支えられて生きている。

まとめると、今の自分自身のすばらしい成果は、ほかの誰かが作り上げた「環境」や 生まれながらに持っている「才能」といった「運」の要素が、いまの時代にピッタリはまり、努力できる環境が整っていたから努力したらやっぱり成功したと考えると自然かもしれない。

しかし、努力する環境があるからといっても努力すること自体はやっぱり大変だ。日本の文化でよくないこととして、お金持ちを妬んで悪者に仕立て上げるようなことがある。それだとお金を持っている人だってあまり素直になれないのもわかるから難しいところなのだけど。

そういうふうにできている

新宿を歩いていると、路上で生活している人にたくさん出会う。過去にテレビで自由な暮らしを求めて自ら好んで路上生活を始めた人がいるというのが流れていたけど、これは本当に一部だ。実際に顔や身なりを見てみればわかるけど、ほとんどの人は路上での生活を余儀なくされている人がほとんどと思う。また、自分の知り合いでもうまく働けなくて社会制度に支えられて生きている人もいる。生活保護がなかったら自殺していたかもしれない。最初は生活保護があることすら知っていなかった。周りが助けようとも助けられない(助けにくい)どうしようもできないことは世の中にたくさんある。しかもふつうに生活していたら見えないところで。

自分自身はたまたまそういう世界を間近で見る機会があったからこそ知ることができた。それまでは思っていた以上に知らないことが多すぎた。たぶん実際に見ないと理解しづらいものだと思う。だからそれを知らない人がいるのもまた仕方のないことだとも思う。自分自身もまた貧しい国々の状況を知っているようで知らないように。

ふだんの暮らしでは だいたい同じ性質の人が同じ場所に集まる。だから同じ人間でも他の性質の人のことは理解しづらい。ところが生物はいろんな性質の個体がいるのが一般的だ。働きアリもいれば働かないアリもいるし、女王アリもいる。もし全部がまったく同じ性格をしていたら…。少し環境が変わるだけで全滅してしまう。ゆらぎがあるおかげで少しくらいの環境の変化が起きても環境に応じた個体が生き残り子孫を残していける。生物はとにもかくにもそういうふうにできている。

だから人間も同じでさまざまな性格、個性、得意・不得意がある。そのおかげで世界全体として人口を増やし続けている。ところが個人単位にフォーカスすれば、どうしても今の世界にハマらない人も出てきてしまう。ぶっとびすぎた行動力によってありえない資産を築く人もいれば、その逆にうまく生活できない人がいるのもまた同じことだ。もしそれが働きアリの世界だったらそっと死んでいくしかない。今の時代に合った個体が生き残り、遺伝子を残していくのは自然界の常識で考えるとふつうのことなのかもしれない。しかし、生物の生態系にのっとって人間もその方式をとっていくのが幸せだろうか? 

生活保護という最初のエンジン

最近の殺人に関する事件を見てみるとどうだろう。見事にさびしさ・無職・フリーター・孤独というキーワードが出てくる。もしもたまたま今の社会と合わない人を放っておけば、ますます憤りを感じている人による犯罪が増えていくだろう。そして最初にも言ったとおりこの目まぐるしい社会において、生活が豊かになるかどうかは運の要素はかなり大きい。生活必需品が行き渡り切った時代において、金がない、じゃあ畑で野菜を作って市場で売ろう、そんな単純な話ではなくなってきている。できる人はやればいい。できない人もいる。50メートル走をどうがんばっても10秒以内に走れない。それは仕方ない。他の競技でがんばるしかない。

だから生活保護は誰でも堂々と受けていい権利だ。テレビで生活保護を不正に受給している実態が流れていたことがあるけど、そんな残念な人は一部にすぎない。大半の生活保護受給者は困っている。生活保護で生活していて情けないと思っていたりする。楽しみだってときに必要だし、もっと堂々と楽しみたいと思っていたりする。

それに生活保護はすべて解決するわけではない。自分の仕事を持ち、役割を持つ、誰かのために行動する、という自尊心が必要だ。仕事をやって自分の役割を持たないと本当の意味で救われない。しかしながら完全に自信を失ってお金まで底をついてしまうともはや救いようもない。そればかりは自分で動いていくしかない。そのためには少なくとも最低限のお金が必要だ。そして復活したら働く、やりがいを持つ、社会との関わりを持つ、幸せに暮らすというステップが踏める。その最初のエンジンが生活保護になる。

自分を守るためにも、周りの大切な人とこれから先も楽しく暮らすためにも、少しでも多くの人が幸せに暮らすためにも、感情抜きにした機械的な生活保護というしくみが挟まることで、今日の人間らしい暮らしが保たれているということは忘れないようにしたいと思う今日この頃でした。

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