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なでと君むなしき空に消えにけん 2-2 杏子

あと少し。あと少し。あと少し。
額にじっとりと汗が滲むのを感じながら、杏子は心の中で呟き続ける。
放課後の学校。テスト期間中の校内は、ひっそりと静まり返っていた。そんな校舎の影にすっぽりと覆われた教員用の駐車場。まばらにとまった車の脇を、そろりそろりと、杏子が進む。
息を止めているのももう限界だった。
とにかくこれを片付けてしまわなければ。
神経をとがらせ、一歩、また一歩と踏み締めるようにして歩みを進めていた、その時だった。
「あんた何やってんの?」
「ぅわあゆいなあっ…ぎゃっ!?」
突然背後からかけられた声に、驚いた猫のように飛び上がった杏子。
その拍子に、杏子の手から何かがすっぽ抜け、そのまま彼女の足元に落下した。
怪訝そうにその様子を見つめる結菜。
「あんたそれ…」
杏子は血の気のひいた顔で足元を見つめていた。
しばらくの沈黙の後、はっとした顔をした杏子が、慌てたように足を交互に上げて、まっさらなコンバースに目を走らせる。
「セーフ…」
呟き、結菜を睨む。
「ちょっと結菜、何してくれてんの?」
「いや、何してんのか聞きたいのはこっちのほうだけど…」
結菜の視線の先、杏子の足元には、粘り気のあるできたてほやほやの犬のデカグソと、先ほどまでそれを持つのに彼女が使っていた割り箸代わりの木の枝が落ちていた。
「自分の彼女が犬のクソもってにやにやしてたらどう思う?」
「正気を疑うね」
「その通りだよ?」
結菜の意味ありげな視線にしばらく呆けていた杏子だったが、ようやく自分がディスられていることに気づき、まゆを寄せる。
「そんなにお昼のことひきずってんの?」
結菜に言われ、一瞬なんのことか分からず再びボケッとした杏子だったが、すぐに何事か思い出したようで、先ほどよりさらに怒りをあらわにした。
「引きずってないもん!それに私はうんち味のカレーって言ったじゃん!これはどっちかっていうと結菜でしょ!?」
杏子は昼休憩中の出来事を思い出していた。
廃部になって以来人が立ち入ることがなくなったおかげで、生徒たちのラブホと化している茶道室で、事を終えた直後のことだった。
カレー味のうんこか、うんこ味のカレーか。
他のカップルが来る前に退散しようとそそくさと下着をつけている時、突如として結菜がそんなことを言い出したのだった。
基本的には大人な性格をしている結菜が何故そんなことを口にしたのか、杏子が昼ごはんにカレーを食べていたからか、はたまた、5日ほど続いた便秘が今朝ようやく解消されたからか。
真相は結菜のみ知るところだが、とにかく、杏子はうんこ味のカレー、結菜はカレー味のうんこだった。もちろん結論に至るまでに、何が消化されてできたうんこかによる、どんなやつが出したうんこかによるなど白熱した議論が展開されたのだが、そうこうするうちにいつものごとく口論になってしまったばかりだった。
「うんこ味のカレーはもはやうんこでしょ…」
足下に落ちたクソを見ながら、結菜がいう。
「またそれ言うの?結菜こそ、カレー味のうんちなんてただのカレー食べた人のうんちじゃん」
「カレー食べたからってうんこがカレーの味になるわけないでしょ、知らんけど」
「そうじゃなくて私は…」
そこで杏子は、まだ結菜に何も言っていなかったことに気づき、不貞腐れたようにそばにあった車にもたれかかり、何事か言いたげに結菜を見つめた。
促された結菜も杏子の隣に背を預ける。
「あのね、菅原っているでしょ」
「ああ、日本史の」
「そう」
菅原とは、校内でクソオブクソとして知られる日本史担当の教師だった。
この50代前半の小太りの男は、自分がまだ若い気でいるらしく、それは別にいいのだが、事あるごとにターゲットの生徒をいじっては他の生徒の笑いを取ろうとしていた。しかし、このいじり方に随分と問題を抱えた教師だった。
例えば、友人たちに仲間内のみで通じる冗談として『陰ゴリ(陰キャゴリラ)』と呼ばれている静かなる巨人、柔道部の佐山を授業で指名する際に陰キャ呼ばわりして顰蹙を買ったり、不快な冗談に気を悪くした女生徒が保健室へ行こうとすると生理か?とぬかしてみたり、挙句吃音の相田君の喋り方を真似して授業を進めるなど、やりたい放題だったのだ。
もちろん、教室はしらけにしらける。
ただ、一部のクソ野郎にそれがウケてしまったせいで、菅原は調子に乗ってしまったのだ。
どうしてこんな先生が学校にいられるのか生徒たちは疑問に思っていたが、そういうやつだと割り切って接することに決めてしまったのか、特別声をあげようとする生徒はいなかった。
世界史を専攻する結菜は直接の関わりこそなかったものの、杏子のみならず、同学年の友人たちから彼の耳を疑うような行動をことあるごとに耳にしていた。
「またなんかされたの?」
菅原の名前を聞いて、急に心配そうな顔で杏子を覗き込む結菜。
「あのね、今日日本史でね、昔の日本の貧富の差について習っててね、それで今の時代の富裕層と低所得者の話になって。あいつ、私のこと茶化した感じで低所得者呼ばわりしてきて…」
結菜の顔に怒りが浮かぶ。
「ほら私、学校でバンドの練習してるでしょ。あいつもそれ知ってて、後ろに置いてたギター見て、そんなん買う金あるのかって、面白おかしく茶化したつもりだったんだろうけど…」
「相変わらずクソねあいつ」
「うん。私のことは別に、あんなやつに何言われたってどうでもいいんだけど、ママのこと馬鹿にされてるみたいで。ほら、ギターだって生活大変なのにクリスマスにプレゼントしてくれたし。毎日私のために一生懸命働いてくれてるのに…。だからすごい腹立って…」
「たって、どうしたの…?」
結菜の顔から血の気がひく。
前にも杏子は菅原にたてついて逆ギレのかぎりを尽くされたことがあったのだ。
「抑えようと思ったんだけど、腹立って、口くせえよぼけダヌキっていってペットボトル投げちゃって…。そしたら、そんなに怒るな冗談だって、ヘラヘラしてて、なだめようとしてきて…」
しばらくの沈黙。
杏子の髪を撫でながら、結菜は彼女が口をひらくのを待つ。
しばらく拗ねたように俯いていた杏子が、ようやくぼそりと呟いた。
「その時は黙った」
そうして、ぱっと顔を上げると、いたずらっぽく目を細める。
「これ思いついたから」
杏が足元を指す。
もう一度クソを見て杏子に視線を戻そうとした結菜は、そこでふと、自分達の数メートル先に菅原のお気に入りの白いBMが駐車してあることに気づいた。
まさかと思って、杏子に視線を戻した時だった。
「これがほんとのクソ食らえってね」
杏子がにこっと笑って中指を立てる。
心配そうにしていた結菜も、杏子のその表情を見てみるみる顔を明るくした。
「それ最高じゃん!」
かくして二人は、粘り気のある犬のデカグソを練り消しが如く引き伸ばし、真っ白なボンネットに嬉々として塗りたくっていった。DJのスクラッチよろしくきゅっきゅっとこすって遊んでみたり、クソでクソを描こうとしてみたりと、一通り楽しみ、無事菅原への復讐も果たし、フィナーレの大作『インポダヌキ』の文字を書き終えた時だった。
「終わった〜」
杏子が伸びをした。
その時、手に持っていた、散々クソをつつきまわした木の枝が、結菜の脇腹に直撃してしまったのだった。
鼻に杖を突っ込まれたトロールよろしく飛び上がる結菜。自分のしでかしたことに気づき呆気にとられる杏子。
「あんっ、あんたこれっ、ちょっ、あんたっ、まじっさいってい!!!!」
枝が直撃した箇所を確認する結菜。青いワイシャツの一箇所に、茶色いシミができていた。
「ごめっ、ごめん!」
怒りに肩を震わす結菜に必死に謝る杏子。
「あんたさあ…」
「ほんとごめんて。で、でもさ、それうんちかどうかわかんないよ?」
「はあ?」
「ほ、ほらだってさ、この枝湿ってるでしょ?泥まみれだったし…」
クソをつつきまわした枝をひらひらとして見せる杏子。
信じられない言動に結菜があっけに取られていると、杏子がさらに続けた。
「それに結菜、うんち味のカレーよりカレー味のうんち派でしょ?」
とどめだった。
なんとなく杏子の言わんとしていることを察した結菜の顔が、般若の如き形相へと変わっていく。
「ゆ、結菜…?」
気まずそうに杏子が聞いた時だった。
「それとこれとは、別じゃくそぼけええええ!」


私が話終わるまで、ヘレナさんはもたなかった。
『いいから、話してみなさいな』
渋る私の横に腰掛け、そっと肩を抱き寄せて、慈愛に満ちたこれぞシスターって感じの顔で促してくれたのはよかった。
菅原の話をしたときは、保護者代表として文句を言いに行きましょうか、なんて私より怒りをあらわにしてくれた。
菅原への復讐を果たした時には、やりましたね杏子さん、なんて言って誇らしそうに私を見てくれた。
けれどその後、私が本当に相談したかった結菜との喧嘩の話になった途端、みるみるうちに顔が崩れていって、私が話し終わる前にお腹を抱えて笑い出してしまったのだ。
「ねえ、真面目に聞いてくれるって言ったじゃん」
「いやだって、さっき、さっきまであんなにっ、あんなに深刻そうな顔をしていたものですからっ、あ、あははっ、あはははっ、はぁ…」
涙を拭い呼吸を整えるヘレナさん。笑い方とは異なり、涙を拭う仕草だけは上品なお嬢様のようだった。
「一体どんな相談をしてくるのかと構えていましたが、結局いつもの、しっ、し、しかも犬のクソって…、あっ、あははははっ」
「ねえ笑すぎ。その後が大事なの!」
「あと?」
ヘレナさんが馬鹿にしたような感じで聞く。
「結菜完全にキレちゃって、注意力散漫だからこういうことになるんだって、いつもいつも言ってんのに全然変わらないとか文句言い出して。でも今回は私が悪かったから謝り続けてたら、大体待ち合わせに遅刻が多いとか、泊まりに来た時シャンプー使いすぎとか、深夜にメンヘラ化するのやめろとか、口でするの下手なくせにすぐやりたがるとか!大体全体的に下手なくせにタチばっかやりたがるとか!ネコの方が向いてるとか!エッチの回数多すぎるとか!!ここぞとばかりに言ってきて…」
「大体杏子さんが悪いですね…」
わざとらしく真顔を作ってこたえるヘレナさん。
「大体、一年も付き合っていれば文句くらい溜まってきますよ。それを乗り越えて絆をさらに深めていくんですから。新しいフェーズに入ったと思えばいいんです」
長引くと思ったのか、面倒くさそうにそれっぽいことを言ってあしらおうとするヘレナさん。
「あと、どうでもいいですけどあなたやっぱり下手じゃないですか」
「ちーがーう!!」
「まったく。で、会心の一撃はどちらがやらかしたんですか?」
急に真顔になったヘレナさんが諭すように聞いてきたので、私は少し口籠もってしまった。
その様子で、ヘレナさんはすぐに察しがついたらしく、ため息を吐く。
「違うもん。散々ひどいこと言われたから頭に血が上ってて。ほんとに思ったわけじゃないもん…」
「何を言ったんですか?」
「結菜のお兄さんのお母さんのこと…」
その瞬間、ヘレナさんの視線が鋭くなった。
「ご、ごめんなさい。でもでも、私も菅原に酷いこと言われたばっかで、慰めて欲しくて、それなのに私のこと悪く言うからつい…」
「具体的には、何を言ったんですか?」
「この前、デートで街に行った時迷って喧嘩になったって言ったでしょ?ほんとは頼り甲斐あるんだけど、頭にきてたからそれ蒸し返しちゃって、結菜のこと頼りないって。でも、ほんとにそれだけのつもりで、別にあんなこと言うために蒸し返したわけじゃなくて…。なんか、それでさらに喧嘩激しくなっちゃって、それで、それで…。結菜がそんなだからお兄さん、『知死期の導』なんかに入っちゃうんだって…」
途端、ヘレナさんが大きくため息をついて、私の頭をげんこつでこつんとあしらった。
「今までは可愛らしいお馬鹿さんでしたけど、今回ばかりは本物のお馬鹿さんになってしまいましたね」
「だってだって…」
「でももだってもありませんよ。結菜さんのことは、あなたが一番知っているでしょう?」
ヘレナさんの諭すような、それでいて強い口調で、ふと、結菜の家の様子が脳裏をよぎった。
部屋に閉じこもりきりの母親。仕事にかこつけて家に帰ろうとしない父親。薄暗い、廊下の奥の閉ざされた部屋からは、気の滅入るような泣き声と、呪詛の言葉が漏れ聞こえてきて…。
結菜の現状がどれだけ辛いか、私は誰よりも理解していると思っていたのに。そもそも、『知死期の導』のことだって、元はと言えば私が…。
「まだ6時前ですね」
腕時計を見ながら、ヘレナさんが言った。
「うん…」
「今回ばかりは、私が言うことは何もありませんよ。自分が一番、わかっているでしょう?」
「うん…」
「わかっていますね?」
そう言って、ヘレナさんは腕時計をつけた方の腕を掲げてみせた。
ヘレナさんが気にしているのは、『1日ルール』のことだ。
どんなに酷い喧嘩をしても、日をまたぐ前に仲直りすること。
それはヘレナさんに野生の雌猿同士のカップルと揶揄されるほど、お互いに気が強く、喧嘩が絶えない私たちのためにヘレナさんが作ってくれたルールだった。
せっかく好きな人と結ばれたというのに、他人との関係の築き方に問題のあった私たちが、このルールに何度助けられたか。
思えば、私に彼女ができたと聞いた時、ヘレナさんは自分のことのように喜んでくれたんだっけ。
「杏子さん、あなたが結菜さんを私に紹介してくれた時のこと、おぼえてますか?」
まるで母親のような声音で、ヘレナさんが聞いた。
「去年の夏休みだよね」
付き合いたての頃、この町の人間ではなかった結菜は、私の面倒を昔から見てくれている風変わりなシスターの話を聞いて、すぐにでも会ってみたいと私にせがんだのだ。
「シスターなんて初めてみるから、結菜めっちゃテンションあがってたよね」
「ええ。死霊館に出てくるやつだと言われた時は少し傷つきましたけど」
ヘレナさんが苦笑いする。
「あれ悪魔だしね」
私も同じように笑ってみせる。
「ええ。悪気はなかったとわかってはいますが。あんな禍々しい顔のやつと同じだと言われたのは生まれて初めてですよ。私、こう見えても自分の容姿には自信がありますので」
「いや傷つくとこそこじゃないでしょ…。自信あるのは知ってたけど…」
「あら?ばれてましたか」
「意地でもベール被らないじゃん」
「この髪は私の最大のチャームポイントですから。まあ被ったら被ったでパーツのバランスの良さが際立つので問題はないのですが」
そういって、夜を閉じ込めたみたいな艶やかな黒髪を、シャンプーのCMみたいに手でなびかせてみせる。
「私に見せても意味ないでしょ…」
「あら、案外狙っているかもしれませんよ?」
「下手は嫌じゃなかったの?」
「精進してくださいという意味ですよ」
話が逸れましたね、とヘレナさんはいい、猫をあやすように私の頭を撫でる。
「あの日、結菜さんの隣で嬉しそうに私たちの会話を見守っていた杏子さんの顔、私の前であんな顔したことは一度もありませんでした。とても幸せそうで。例の一件で杏子さん、自分の好きに素直になれないところがあったでしょう?」
「いや、むしろあれのせいで女子が好きってバレたうえにガキ大将にまでなっちゃったんだけど…」
「自分で気づいていないだけですよ。ずっと心配していたんです。中学生の時だって、好きになった方と友達のままで終わってしまったでしょう。だから、あんな顔が見られて、私もとても嬉しかった。この素敵な恋愛を思う存分楽しんでほしいんです。結菜さん、とても良い方ですし、ね?」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと仲直りできますね?」
「する」
私が答えると、ヘレナさんはもう一度私の頭をゆっくりなでた。
その時だった。
「杏子さん!?まだいたんですか!」
突然かけられた声に驚いて視線をやると、不安げにこちらを見つめるシスター・アグネスの姿があった。
世話焼きの近所のおばさんにシスター服を着せたみたいなアグネスさんは、おろおろしながらこちらへ駆け寄ってきた。
「シスター・ヘレナ、今何時だと思ってるんですか?」
「大丈夫ですよシスター・アグネス。いざとなれば神父様に車を出して貰えばいいんですし」
「まあなんてこと…」
「それにシスター・アグネス。あなた少し気を張りすぎですよ。いくら彼らでも、杏子さんに手を出すなんてことはしませんよ」
「それはわからないでしょう!」
鬼気迫るアグネスさんの声音に、私は気圧されてしまって慌てて立ち上がる。
「ご、ごめんなさいアグネスさん。すぐ帰るから」
「杏子さん、仕方ないから神父様にお送りしてもらいなさい」
「だ、大丈夫だよ、すぐ帰れるし。ヘレナさん、ありがとう!」
「ええ、お気をつけて」
「ちょっと、杏子さん!?」
「ほんと、心配しないでアグネスさん。また明日、きますね」
「そ、そう。気をつけてね?」
「うん!また明日!」
何事か話し合うヘレナさんとアグネスさんを背に、慎重にぬかるみをぬけると、そこで神父さんにも車に乗っていけと声をかけられた。彼は心底心配そうに私を見ていた。
「大丈夫だよ。それに、私を送った後の神父さんの方が心配だよ?」
私が念を押すようにいうと、神父さんはそれでもと食い下がったけれど、私は約束していたブルーベリーをもぎ取ってそのまま帰路についた。


「杏子ちゃん、遅い帰りだねえ」
教会を出て、しばらくした時だった。
突然かけられた声に振り返れば、薄暗い道の端に、蒔田のおばあちゃんが、じっとりとした視線を私に向けて立っていた。
そこで私は、ここが蒔田のおばあちゃんの家の前だと気づいた。
「あ、蒔田のおばあちゃん。こ、こんばんは…」
「今はテストで早く帰ってくるんだろう?」
「う、うん。さっきまで街の方で友達と勉強してて…」
「そうかい。でも、こんな時間に電車なんてあったかね」
「う、うん。あるよ…」
「そうかい…」
蒔田のおばあちゃんは疑わしそうに私を見つめている。背筋に冷たいものが走る。視線に耐えられなくなった私は、適当に挨拶をして切り上げた。
努めて平静を装って歩いているつもりだけれど、肩はこわばり、急足になってしまう。振り向かなくても、おばあちゃんが私を目で追っているのは明らかだった。
四辻を曲がったところで、ようやく肩の荷がおりた。
立ち止まり、はやる鼓動を治めるようゆっくりと息を吐く。力の入っていた肩がはってしまって、ずきずきと痛んだ。
蒔田のおばあちゃんの、ねっとりとした視線を思い出す。
その瞳は、下校中にいつもみかんやきゅうりをくれた、温かい言葉で労ってくれた、あのおばあちゃんの瞳とは似ても似つかないものだった。
おばあちゃんだけじゃない。この町の人たち全てが、変わってしまった。
私はこの渡呉(わたらご)の町が好きだった。
山に囲まれて、朝はいつでも霧だらけ。電車は1時間に一本で、街に出るまで40分もかかる。集落には顔見知りが経営するお店以外は何もないし、集落を出れば田んぼと山ばかり。最寄りのコンビニまでは、車をとばしても20分はかかってしまう。
同世代の子たちはこんな田舎早く出たいって言うし、街の高校に行くようになってからは、私もその気持ちが理解できるようにもなった。
けれど、みんながお互いを気にかけ、助けあうこの町の暖かさを、私は知っている。
それにここには、ヘレナさんたちがいる。
私含め、町の人たちで洗礼を受けている人は、元々この町の出身だったアグネスさん以外、誰一人としていないけれど、あの教会は私たち町の人間にとっての心の拠り所だった。
信徒でもなければ信仰もない私たちを、ヘレナさんも、神父さんも、アグネスさんも、嫌な顔ひとつせずに迎え入れてくれる。
例えどれだけ遅い時間におしかけても、どれだけつまらない悩みをもちかけても、ヘレナさんたちは嫌な顔ひとつせず受け入れてくれた。
それは私に限った話ではなかった。私が生まれる前から、あそこはこの町の人たちにとっての、心安らぐ第二の実家みたいな場所だったのだ。
それなのに…。
一年前、『知死期の導』がやってきて、全てが変わってしまった。
田宮と名乗る男が連れてきた変な神様のせいで、全てが…。


鍵をひねった途端、背筋に冷たいものが走った。
今起きたことを信じたくなくて、私はもう一度、ゆっくりと鍵をひねる。けれどやっぱり、かぎのあく感触はなく、ただただ虚しく、空転するだけだった。
恐る恐る、玄関のドアを開ける。
「ママ?」
家の中は、不自然なほど静まり返っていた。
「ママ?」
もう一度呼びかけてみても、返事はない。
リビングに続く仄暗い廊下が、不気味に私を待ち構えていた。
靴を脱ぎ、ゆっくりと歩みを進める。
「ママ?」
もう一度呼びかけても、返事はなかった。
心臓が激しく脈打って、ブレザーのリボンを揺らしている。喉の上の辺りが乾いてヒリヒリして、息も唾も、うまく飲み込めなかった。
とうとう、廊下とリビングを隔てるドアの前まで来てしまった。
「ママ?」
もう一度だけ呼んだ。
返事はない。
意を決して、扉を開けた。
………。
ほんの数秒、何がどうなっているのか、理解が追いつかなかった。驚きすぎたせいか、目眩を起こした時のように、ふわっと意識が浮いて、目の前に広がる光景の輪郭を掴むことができなかった。
もしかしたら、あまりの恐怖に、私の無意識が理解を妨げようとしてくれたのかもしれない。
でも結局、私は目の前の存在をはっきりと捉えてしまった。
「おかえりなさい、杏子さん」
落ち着いた、不思議な抑揚のある、不快な声だった。
心臓が痛い。肩が痛い。頭皮にまで鳥肌が立っているのか、頭がぞわぞわする。
リビングの真ん中に、田宮が立っていた。
そうして、田宮の足元には…。あしもとには…。あし、もとには…、あれは、なに…。
「ああ、驚かせてしまって申し訳ありません。けれど、あなたたちがいつまでも御前様の奇跡を受け入れないからですよ?」
見覚えのあるスカート。見覚えのある靴下。あれは、なに…。
「荒っぽい手段に出てしまったのも、謝ります」
あ、あれ、あれ、あれは、あれは…。
「ま、ま、ままま、ま、まま?」
お腹に力が入らない。頑張って絞り出した声も、まるで言葉になってくれない。けれど、あれは…。
「でも、ここまできたら直接体験していただくのが一番かと思いまして」
あれは…、あれは…。
「だってもう、お父様はお骨になってしまったでしょう?」
そう言って、田宮が足元のそれを転がした。質量を伴った音で、それが床の上で仰向けになった。ママだった。ママの体からは、まるで力がぬけていた。
…。
……。
………。
「た、た、たた、た…、たぁみやあああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」


続く


あとがき
お読みいただきありがとうございました!
見切り発車で書き始めてしまったせいで決まった更新日はありませんが、ゆるゆる続けていきますので、これからも読んでもらえると嬉しいです。

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