後白河法皇⑤

保元元年(1156年)7月10日、白河北殿が焼け落ちると、崇徳上皇は源為義らに擁されて東山の如意ケ嶽に逃れたが、剃髪して投降する決意をし、武士達と別れた。
崇徳上皇には弟がいる(後白河天皇にとっては兄)。覚性法親王といって、仁和寺の門跡だった。
13日に、崇徳上皇は覚性法親王を頼って仁和寺を訪れ、後白河天皇方への取りなしを依頼したが、覚性法親王は断ってきた。やむなく崇徳上皇は源義朝の配下の源重成に鳥羽付近に護送された。
頼長の父忠実は敗報を聞いて、宇治から奈良へと逃げた。
藤原頼長は騎馬で白河北殿から脱出したが、脱出の際に頸部に矢を受けて重症を負ってしまった。
それでも頼長は力を振り絞って、12日に嵐山方面、13日に大井川(現桂川)を渡り巨椋池(かつて京都府南部に存在した湖)を経て木津へと逃亡し、最後に奈良に赴き忠実に面会を求めたが、忠実から拒否された。そして絶望した頼長は、14日に頸部の傷が原因で絶命した。
源為義は東国に逃れようとしたが、老体でもありすっかり気弱になって、この上は出家して降伏してしまおうと決めた。
「義朝が勲功に変えても父や弟達を助けるだろう」と為義は言ったが、子の源為朝は降伏に反対した。
為義は出頭したが、為朝は逃亡を続けて近江国坂田に潜伏した。しかしそこで病にかかり、湯治をしていたところを捕らえられた。
平忠正は伊勢方面に逃れたが、しばらく潜伏した後、甥の清盛を頼って投降した。
崇徳上皇は23日、讃岐へと護送された。400年前の淳仁天皇の配流以来の、天皇もしくは上皇の配流となった。
義朝は為義の言葉通り、自らの勲功に換えて父や弟を助命しようとした。
(さあ信西、どうする?)
と、後白河天皇は信西の動向を伺った。
「死刑を復活させる」
と、信西は宣言した。
死刑の復活には反対意見もあった。
なにしろ、死刑は平安初期の薬子の変から346年死刑は行われていなかったのである。
しかし事態は戦闘行為に及んでいる以上、死刑を行わず収拾できないというのが、信西の判断であった。また信西は、反対意見に対しても手を打ってあった。
「それがしが伯父上を斬ることで手本といたしましょう」
と、平清盛が言った。父や弟の助命を嘆願する義朝への牽制である。
実に哀れなことになった。
清盛が斬るのは伯父だが、義朝が斬るのは父である。清盛は義朝が為義を斬るように仕向けたのだが、清盛と義朝では斬る重さが違う。
(なんとも酷なことを)
後白河天皇は思った。信西もまた、武力を持つ武士に対し一定の警戒心は持っており、武士に力をつけさせないように、義朝に儒教倫理の孝に反するように仕向けていた。清盛もまた信西の意を受けながらも、自らは伯父を斬ることで儒教的な批判は最小限にし、義朝の源氏の名に傷がつくように仕向けていった。
(清盛という者もなかなかの者よ。しかしこのことが後々の禍根とならねば良いがの)
こうして30日に、源為義は子の義朝の手によって斬られた。
源為朝は伊豆大島へ配流となった。
藤原忠実は高齢と息子の忠通の奔走により罪を免れたが、洛北知足院に幽閉の身となった。
こうして、保元の乱は終わった。
合戦が終わった11日に、藤原忠通は朝廷より藤氏長者に任命された。しかし忠通はこれを受理しなかった。
忠通の父忠実と弟頼長の荘園は膨大なものであったが、そのうち公家以外の預所(つまり武士や悪僧の預所)は改易し国司の管理とされた。これは摂関家の所領を没官したのではないが、この処置により摂関家は武装解除されてしまった。
18日には、宇治殿領と平等院を没官する綸旨が忠通に下された。
なお綸旨には、「長者摂る所の庄園においてはその限りにあらず」とあった。
つまり忠通に、藤氏長者となって忠実の荘園を相続しろということである。
ここに頼長領を朝廷に奪われたくない忠通と信西の対立があったが、19日に忠通は折れ、藤氏長者となる宣旨を受けた。
こうして頼長領は没官された。
清盛は播磨守、義朝は右馬権頭となった。
信西は没官した頼長領を基軸にして、新たな荘園を造った。
後に長講堂領と言われ、天皇家の代表的な荘園となる。
(礼を言うぞ信西、そなたのおかげで朕の収入が増えた)
9月18日、後白河天皇は7ヶ条の宣旨を発令した。いわゆる保元新制と呼ばれるものである。
その第一条の冒頭に、
「九州之地者一人之有也、王命之外、何施私威」とある。
「九州」とは今の九州地方のことではなく、古代に中国が全国を9つの州に分けたことから、本来は天下を指す。日本では後に、9つの国があるから九州島を「九州」と言うようになったが、まだこの時期ではなく、日本全国を指して「九州」と呼んだ。
「一人」とは地天の君、この時点では後白河天皇を指す。「九州は地天の君の所有するものであり、王命以外に誰も私的な威光を示すことはできない」
という意味である。
(信西め、言うわ)
典型的な王土思想である。
もっとも、荘園制を否定した律令国家への回帰ではない。あくまで荘園制は前提とされており、そのことを示すために、関白忠通との間に妥協点を探ったのである。
第一条と第二条は荘園整理令で、後白河天皇の践祚を待たずに設立した荘園を認めないとすること、そして荘園の荘民による國衙領の略取を禁止したものであった。
当時は荘民が國衙領に出向いて耕作し、それを荘民の土地だと主張して公田を奪ってしまうという事件が後を経たなかった。保元新制はそれを禁止したのである。
第三条から第五条は神人や悪僧の濫行を規制したもので、宗教勢力が朝廷にとって目の上の瘤であったことを示している。
第六条から第七条は寺社の神事、仏事にかかる費用を予め報告するように命じたもので、必要経費から必要な荘園の大きさを割り出して寺社の荘園の拡大を規制しようというものであった。
10月には記録荘園券契所が設置された。
記録荘園券契所は白河法皇の前、後三条天皇が荘園の整理のために設置したもので、不正荘園を摘発し、書類の不備な荘園を没収する機関である。
そうして手に入った荘園は後白河天皇の荘園となっていく。
こうして信西は後白河体制の中枢となり、信西の子達もどんどん昇進していった。
その間、信西は大内裏の再建に着手した。
大内裏は10世紀後半から頻繁に火事に遭い、そのために再建されたが、白河院政期にとうとう「大内裏は広すぎる」と白河法皇が言って、それ以降一部の施設を除いて再建が行われなくなった。
信西は諸国に無理のない負担で、1年ほどで大内裏を再建したが、それも大極殿や朱雀門などのごく一部であったらしい。
(しかし朝廷の力が急速に強まると不平を買う。ここらで手綱を締めておかねばな)
と後白河天皇は思ったのは、信西の対抗馬を立てることだった。
その名を、藤原信頼という。
藤原信頼は下級公家で、院政期でなければ立身出世の機会のない人物だった。
信頼は保元の乱には登場していないが、保元の乱以前から後白河天皇に重用されている。
重用されているどころか、保元の乱に多少関わっているともいえる。
源為義と嫡子の義朝は対立しており、摂関家を後ろ楯とする為義と鳥羽上皇を後ろ楯とする義朝の対立は日増しに激しくなった。
為義は義朝を牽制するため、義朝の弟の義賢(木曽義仲の父)を板東に派遣した。
義朝は長子の義平を派遣し、義平は保元の乱の前年の久寿2年(1155年)、大蔵合戦で義賢を討ち取った。信頼はこの時武藏守であり、大蔵合戦を放置することで義平の勝利をもたらした。
この大蔵合戦は保元の乱の前哨戦と言われている。
信頼は「あさましきほどの寵愛あり」と周囲に言われるほどに後白河天皇に重用された。

しかし今度は、後白河天皇がその動きを制限される番だった。
後白河天皇が守仁親王に譲位することとなったのである。
後白河天皇の譲位は「仏と仏の評定」、つまり美福門院と信西の協議によるもので、後白河天皇は拒むことができなかった。
なにしろ鳥羽法皇の荘園は、ほとんどが美福門院とその娘の暲子内親王が持っている。後白河天皇は頼長の没官領をもって経済基盤とするしかなかった。
こうして、守仁親王は保元3年(1158年)8月11日、践祚して二条天皇となった。時に二条天皇15歳。
二条天皇は若くても政治に意欲のある人物で、美福門院の従兄弟の藤原伊通、二条天皇の伯父の大炊御門経宗、天皇の乳母の子の葉室惟方が二条親政派を形成した。こうして朝廷は、信西派と信頼の後白河派、二条親政派に分裂した。
(まさか我が子と権力を争うことになるとは)
後白河上皇は美福門院に対抗するため、同母姉の統子内親王を准母として、待賢門院所生の兄弟のつながりを強めようとした。
准母といっても、統子内親王は後白河上皇と1歳しか歳が違わない。
後白河上皇は、後に統子内親王に上西門院の女院号を送った。
一方、摂関家の凋落は著しいものがあった。
保元3年、関白忠通は加茂の葵祭に牛車で出向いたが、その時藤原信頼の牛車が忠通の牛車を横切った。
関白に対するこの非礼に、忠通の下人は忠通の牛車を破壊することで応じた。
(これは良い機会じゃ)
後白河上皇は、この機会に摂関家の力を削ぐことを忘れない。
わざと腹を立て、忠通を閉門にした。
忠通は閉門5日で許されたが、下司の平信範は2ヶ月の謹慎となった。
その年のうちに、忠通は関白職を嫡子の基実に譲ってしまった。
忠通は信頼に取り入ろうとし、信頼の妹を基実の妻に迎えた。

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