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ハートにブラウンシュガー 2

「おい、そこ。ベース走ってないか?」
ドラムを叩いていたクマこと茶倉満男が演奏をやめて声を出した。
「え? そんなことねーよ」
ベースを弾いていたサブこと佐藤三郎が口を尖らせて言い返す。
「オマエのドラムの方こそモタついてないか?」
「ないよ。メト聴きながらやってるんだ」
メトとはメトロノームの略だ。

 ここはスタジオFというレンタルスタジオで、彼等はバンド練習をするのによくここを利用する。
 クマとサブ以外にスタジオにいるのは、ギターの真柴 玲(レイ)とヴォーカルの田中ティナの2人だ。
 彼らは『ブラウンシュガー」というバンド名でハードロックをやっている。今はまだアマチュアだが、この世界、誰もがプロを目指しているのは言うまでもない。

 それぞれが壁を背にして向き合う様な形でかれこれ1時間程、次のライヴに向けての練習に取り組んでいた。
 バンドのリーダーであるクマが練習のイニシアティブを取っているのだが、他のメンバーもそれぞれ思いついた事は何でも口を挟む。
 一番の新入りでもあるティナにしても、かなり気兼ねなくポンポンと言いたい事を言う。レイはあまり何も口出ししないタイプだが、時折ボソッと確信をついた事を言う。

 バンド結成からそろそろ3年が経とうとするが、ティナが加入するまではパッとしないバンドだった。
 レイのリードギターの腕前は大したものだが、クマもサブもリズムを合わせるだけで手一杯な調子だ。
 もともとはジャス系のバンドを目指していたクマとサブだったが、レイが加入した頃からロック路線にスタイルを変更して行った。
 半年前にレイがヴォーカルにティナを連れて来たことをきっかけにして、バンドはブレイクを果たした。
 それ以来、ブラウンシュガーの人気はうなぎ上りで、ライヴはどこのハコでも、チケットはあっという間に売り切れる。
 あちらこちらの界隈で、かなりの人気が出始め、中には熱狂的なファンさえも居たりする。

 それだけに次のライヴに向けて練習に熱が入るのも当然なのだが、残念ながら、今日の練習の出来栄えは、かなりバラつきを感じさせる結果になってしまった。
 ティナとレイはコツさえ掴んでしまえば、後はライヴのノリで表現する、つまり練習よりむしろ本番で力を発揮するタイプだ。
 それに反して、クマとサブは徹底的に練習を積んで身体にそのリズムを刻み込ませて行く。そして本番でも練習通りに演奏する、そういうタイプだ。
 だから、練習で上手く行かないものを、本番でそれ以上の演奏が出来るとは到底思えない。
 本人達もそれを知っているので、2人は自然と練習に身が入る。
 しかし、今日の様に何故かしら呼吸が合わない時は、気まずい雰囲気が漂い、レイやティナまでも段々と気乗りしなくなって来る。
 次のライヴまではまだ2週間以上の間があるとはいえ、こんな状態で練習を終えた事に、クマは不安感しかなかった。

「おい、サブ良かったら俺んちへ来ないか?」
 ここは一度サブとゆっくり話し合ってみた方が良いと思い、クマは練習帰りにそう声を掛けた。
「え? 今から?」
時刻は午後10時を回ろうとしていた。
「涼子のことは気にしなくてもいいから」
涼子というのはクマの奥さんの名前だ。
 熊の様な巨体のクマに比べて涼子は小柄で可愛い。しかもしっかり者で若くてよく気が付くという欠点の無い、クマにはちょっと勿体ないと思うほどよく出来た奥さんである。
「まあ、そう言うなら、分かった。少しだけ寄らせて貰うよ」
 サブはそう返事した。
 クマの家とサブの家はそんなに遠い訳ではない。
お酒を呑んで車を置かせて貰って歩いて帰ったこともこれまで何度かある。涼子とも顔馴染みだ。
 レイとティナはいつも2人で連れ立って帰る。2人がデキてる事は周知の事実だ。
 当初はクマもそれがバンド活動に何か影響を及ぼすかもと多少気にはしていたが、2人の性格だろうか、案外公私の区別を付け、上手くやってる。
 もともと、レイとティナは音楽的に優れているから、バンドとしては欠かせないメンバーであり、いわば今の人気は彼らあっての事だ。プライベートなことまでは詮索しない、それがクマの下した結論だ。

 それよりも、ドラムとベースというリズムセクションを受け持つ2人の呼吸が合わない事には折角の演奏も残念な結果になる。
 思えば今日のサブは何だかいつもとは様子が違って見えた。具体的にどこがどうとは言えないが、何となくであるが、集中力もなく、心ここにあらずといった印象を受けた。
 クマがサブを誘ったのもそんな理由があっての事だった。
「まあ、座れよ。ゆっくりしてけよ」
と部屋に入るなり、サブをリビングに通し、クマは奥の部屋で子供を寝かせつけてる涼子に声を掛けた。
「サブだよ。リビングで2人で呑んでるから」
「ああそう。久しぶりね。分かった。後で顔出すわ」
涼子は笑顔でそう答えた。
 1歳児になる娘の彩花と添い寝している母子の顔を見るとクマの表情も自然に緩む。
 ビールとちょっとしたつまみを冷蔵庫から選び出して、リビングに戻る。
 サブが放心した様なていでボーッと座っている。
 クマは黙ってビールとグラスをテーブルに置いた。サブとは長い付き合いになる。カッコ付けてる様に見せて案外気の小さい所もある。
 「よいしょ」
と声を出して真正面ではなくて横向きになる位置に腰を落ち着かせる。
 こんな時、直ぐには本題には入らない。暫く世間話をして喉を潤し、適度な笑い話で場を和ます。
 少し経った頃、「いらっしゃい、サブちゃん、久しぶりね」と涼子も顔を見せた。サブも涼子につられて笑顔で頭を下げる。
「夜遅くにお邪魔してすみません」とサブは詫びるが、
「いいんだよ。俺が誘ったんだから」
 クマが顔の前で割り箸を持ちながら手を振る。
 涼子はテーブルの上をザッと見て、
「つまみが足らないわね。ちょっと待っててね」
 と、キッチンに立つ。
「あ、お構いなく」とサブは言うが、
「いいの、いいの、気にしないで」
 涼子は笑顔のままだ。
 ささっと煮物やらきんぴらなどを小鉢に入れて、「はい、どうぞ」と並べる。
「あ、本当にすみません」
 とテーブルの上が賑やかになったのを見て嬉しそうにサブも相好を崩す。
 涼子もその場に加わり、3人で少しの間、取り止めもない話を交わす。男2人だった殺風景な空間が涼子の笑い声で華やかになる。
 適度な頃合いを見て涼子は、
「じゃ、そろそろ私は彩花の側に戻るわね」と言って席を後にする。
 こんな時、我ながら気の利いた奥さんを貰ったものだとクマは涼子の振る舞いに感心する。
 少し落ち着いたところでクマは本題に切り込む。
「なあ、サブ、最近オマエ何かあったのか?」
 クマは一番気になっていた事を率直に切り出した。
「何かって?」
「いや、何となくそう思っただけで、俺の取り越し苦労ならそれでいいんだ。だけど、今夜の練習とか見てると、何と言うか、集中力に欠けてるみたいな、そんな気がしてな」
 サブは暫く黙った。
 クマはビールをゴクリと飲み干すと手酌で自分のグラスに注ぎ足した。そして、サブの方にも瓶の先を向ける。
 サブは「少しだけ」と言ってグラスを傾けた。

 結局、その夜、サブがクマの家を出たのは日付が変わってからになった。車は置いて、ゆっくりと頭を冷やしながら歩いて帰る事にした。
 15分程歩くとアパートが見えて来る。サブは通りの路肩に目をやり、そこにクルマが停まっていない事に安堵し、少しガッカリもする。

 サブの話は10日程前にやったライヴの日に遡る。
 あの日、ライヴ終了後、片付けを終えたサブの元に、一人の女性が近寄って来た。彼女は褐色の肌をしたハーフの様だった。
「わたし、あなたのファンです」と言って握手を求められた。
 ライヴ終わりの興奮もあり、その場の勢いでサブは彼女を呑みに誘ってみた。彼女、名前はメアリーと言った。とてもセクシーで魅惑的な娘だった。
 その晩、サブとメアリーはいい雰囲気で意気投合したのだが、
「彼氏はいないの?」
と何気なく訊いたサブの言葉にメアリーは目を伏せた。
「実は、彼氏に浮気されてフラれちゃったの」
と言っては突然何かを思い出してしまったのか、両手で顔を覆った。
 それからは何をどう宥めても、メアリーは泣き崩れるばかりで、最後には、とうとう、
「帰りたくない」とサブの腕に両手を絡めてぐずり始めて、離さないのだ。
 サブはメアリーの豊満な胸の膨らみを二の腕に感じ、戸惑いを隠し切れ無かった。
 サブにしてみても以前付き合っていた彼女と別れて既に三年以上経とうとしていた。

 そんなこんなで結局サブはメアリーを自分のアパートへ連れて帰った。
 メアリーはサブのアパートに着いてからも泣き腫らした顔のままで、狭い部屋の一つしかない布団の中へ2人揃って裸になって潜り込んだものの、メアリーはずっと涙に暮れて身体を固くしたままだった。
 サブはメアリーの背中に手を回して、慰めてやり、そのままじっとしていると、いつのまにかメアリーは眠ってしまった。
 それでもサブはメアリーの吸い付く様なボディと持て余すくらいのバストとヒップの感触を感じて、それだけでもいい気分だった。
 スヤスヤと眠るメアリーの寝顔を見ているだけで、夢心地の様な気分になって、何となく幸せを感じてしまうのだった。
 そして、いつのまにかサブもウトウトとしてしまい、気が付けば白々と夜が明け始めていた。

 朝になって、目が覚めるとメアリーは、
「昨夜はごめんなさい」とサブに謝った。
「いいよ、いいよ」と呟きながら、
「腹減ったろ、待ってろよ」とサブは言う。
 朝食に、目玉焼きとトーストを出してやったら、ようやくメアリーも笑顔を見せてペロリと平らげた。
「元気出して、また来いよ」
 サブの言葉に、メアリーは微笑んで頷くとアパートを出て行った。

 ところが、3日前の事。バイト帰りのサブがアパートの前まで来ると、路肩に停まっていた黒の軽自動車からメアリーが出て来るのだった。
 見るとどうも表情が思わしくない。またフラれた彼氏の事でも思い出して沈んでいるのかなと思い、とりあえず、部屋へ招き入れた。
 しかし、メアリーの話はそうでは無かった。
「実は、彼氏ともう一度付き合う事になったの」
 メアリーはそう言った。
 サブはガッカリした。でも仕方ない。ここは男らしくきっぱりと諦めるしかないと思い、
「そうか、それは良かったじゃないか。彼氏と仲良くやれよ」
 と強がりを言って笑って見せた。
 だが、メアリーの話はそれだけではなく、まだ続きがあった。
「あのね、こないだの事、わたし、彼氏に喋っちゃったの」
 サブはびっくりした。
「え、何で?」
「あの日、わたしの帰りを彼が待っていてくれてたみたいで、どこに行ってたんだと問い詰められて、つい……」
「えー、ダメだよ。そんな事言っちゃあ」
「わたしもその積もりだったんだけど」
「それで、彼氏は、どんな様子だった」
「彼はずっと黙って、わたしの話を聞いてたんだけど」
「うん、それで?」
「最後にこう言ったわ。サブちゃんに会わせて欲しいって」
「いや、ダメだよ。それは……」
 サブは冷やっとして、全身から血の気が引く思いであった。
「頼むから会ってあげて、でないとわたし、何されるか分からない」
「そんな……、困るよ」
サブは途方に暮れた。
 それでもメアリーは、お願いだからと頭を下げ続けるのだった。
 どうしたものかと、思いながら、
「で、彼氏って、何してる人?」
 とサブは訊いてみた。
「米軍基地に配属されてるアメリカ軍人よ」と言う。
 だめだろ、それは……。
 サブは青くなって、プルルと身体が震えるのを感じた。

「で、結局、どうする事にしたんだ」
クマにその事を話した後、そう訊かれた。
「会う事になったよ」
「押し切られたのか」
「まあ、そう言う訳だ」
「それは、オマエ、いわゆる美人局て奴じゃねえか?」
「え? だけど……」
 サブにはメアリーがそんな悪い娘だとは、どうしても思えなかった。
 あの時の涙も決して嘘泣きではないと思えて仕方ない。
 結局、クマに話はしたものの、こればかりは、どうするアイデアも浮かばず、クマの家を後にしてアパートに戻って来た訳だが、心は重いままだった。

 そして、メアリーとその彼氏、名前はジェームスと言うらしい。2人に会う約束の日がやって来た。
 指定されたカフェで、アイスカフェラテを飲みながら、サブはメアリーが現れるのを待った。今更、何を言われても仕方ない。まさか、こんな人の多いカフェの店内で暴力を振るわれることもないだろうとタカを括っていた。それに、何よりサブはメアリーと一線を超えた訳ではない。
 裸で抱き合った事には違いないが……。
 それは悩ましい問題であった。

 ドアを開け、メアリーが店内に入って来た。
 その後ろに背の高い、屈強な体付きの外国人が現れた。トム・クルーズを思わせる、いい男だ。
 その雰囲気だけでサブは圧倒されていた。
「サブちゃん、来てくれて、ありがとう」とメアリーは今日はやけに機嫌が良い。それだけに不気味なのだが……。
 トム、いや、メアリーの彼氏、ジェームスはチノパンに柄シャツというラフな格好をしている。
 シャツの第二ボタンまで開けていてチラッと胸毛が見える。半袖シャツから見える二の腕は筋肉隆々で、もしもその腕でパンチを喰らわされたら一発でKOだ。
 サブの前の席に2人は並んで座り、それぞれドリンクをオーダーする。
 ジェームスはメアリーと何やら英語でやり取りするので、サブには何を話しているのか、サッパリわからなかった。
 ドリンクが来て、一口それで喉を潤し、ジェームスはサブをじっと見詰めて、
「アナタガ、サブサン、デスカ?」
と片言の日本語で話しかけた。
「あ、はい、そうです」
 サブは生きた心地がしなかった。蛇に睨まれた蛙とでも形容しようか、体を小さくして俯き加減で座っていた。額や首筋から汗が流れ落ちるのを感じていた。

 すると、突然、ジェームスが、
「コノタビハ、メアリーガ、オセワニナリマシテ、ドモ、アリガトゴザマシタ」と頭を下げるのだった。
「えっ?」
と、サブはこの展開に戸惑った。
「メアリー、ワタシノ、コイビト、ワタシ、カノジョニ、ヒドイ、コトシタ、ユルシテクダサイ」
 ジェームスは、ひたすらサブにもメアリーにも謝った。
 そうだ、元々はジェームスの浮気が原因で、こうなったのだ。
 だけど、考え様によっては、その隙をついてメアリーに手を出したと捉えられても不思議はないんだが……。
「ハナシワ、ゼンブ、メアリー、カラ、キキマシタ」
 ジェームスはメアリーの部分だけネイティブな発音になる。
「サブサン、アナタ、ヤサシク、ナグサメテ、クレマシタネ、ホントニ、アリガトゴザマス」
「あ、いいえ、そんな」
 メアリーも口を添える。
「あの時、わたし、ヤケになってたの。サブさんが居なけりゃ、わたし、どうなってたか」
「あ、いや、それは、成り行きで……」

 まあ、とりあえず、最悪な事態にはならなくて済んだ。
 程なくしてジェームスとメアリーは、仲良さそうにサブに手を振って帰って行った。
 その後ろ姿を見ながら、サブはほっとした様な、ガッカリした様な、気が抜けた、そんな複雑な想いだった。あの日、メアリーの事をほんの一瞬ではあったものの、本気で考えたりもしていたのだ。
 束の間の恋心だったのかも知れない。

 暫く放心状態で飲みかけになっていたアイスカフェラテをストローで啜っていると、
「よっ」と、声掛けられた。
 えっ? と思って振り向くと、クマだった。その後ろから、レイとティナまで顔を出す。
「居たの〜?」
「そりゃ、居るさ。もしも何かあってベースが弾けなくなったら、バンドにとっても手痛い損失だからな」
 クマはニヤニヤ笑う。
 一応今日の予定をクマに報告しておいたのだ。
「サブさん、危ないとこでしたね」
「でも良かったじゃん」
とレイもティナも声掛ける。
 サブは内心、申し訳なかったなと思うとともに、メンバーがいてくれて良かったと思った。それと迂闊にファンだと言って近寄って来る女に気を許さないことを肝に命じた。

 その夜もブラウンシュガーの面々はスタジオFで練習をした。
 次のライヴでやる予定曲を通しで流して行った。
「よし、OKじゃないか?」
 今日はドラムとベースの息もぴったり合った。レイも気持ち良さそうにレスポールを掻き鳴らした。ティナのヴォーカルもいつも通りパワフルに、かつセクシーで迫力満点だった
 スティックを握りしめてクマは満足そうに、みんなを見回した。
「good!」サブが親指を立てる。
 レイも微笑んで、同じサインを送る。ティナは、
「サイコーじゃん!」と声を出して笑った。
 次のライヴも楽しみになって来た。きっと上手く行くだろう。そんな手応えを感じた。
 クマとサブはアイコンタクトをとって、笑顔を交わす。
 サブは自分がブラウンシュガーの一員である事に誇りを感じていた。



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